福島県立會津高等學校&會津女子高等學校第12回(昭和三五年)卒業在京生同窓会

  珊 瑚 抄

言葉がヘンだ           酒井幹夫



言葉がヘンだ
言葉は時代とともに変わるものであることは承知しているが近頃どうも 釈然としない言葉が多い気がする。
例えば大分前の話になるが路を歩いていると脇を通り過ぎていった二人 連れの若い女性曰く「私ね結婚して子供とか産んで・・・」
はて、子供以外に何を産めるのだろう。この"とか"は何を意味すのだろ う。
「とか」はetcではないのか?
因みにこういうのを「とか弁」というらしい。

◇助数詞
年齢を比較するとき一個上だとか二個下だとかなんともしっくりこない 。
1から10までの勘定は一つ、二つが正しい日本語だと思う。
(但し人数を数えるときは例外だ。)
壺坂霊験記(浄瑠璃)という古典芸能の中では「三つ違いの兄さんと~ 」と言うくだりがあるがこれが「三個違いの兄さんと~」ではぶち壊し だ。
丁寧な挨拶では三つ指を突くし大罪は七つだ。
北斗七星は七つ星、三ツ星のレストラン、お化けは一つ目小僧に三つ目 小僧だろう。これらをみんな「個」でやっつけたらどうなる?
それにだ、かの有名な猥歌も「♫一個出たホイのヨサホイのホイ・・・ 」では淫風も漂って来まい!

◇「なにげ」
これも最近気になる言葉だ。
こんな風に使うようだ。
「なにげに向けた視線の先に~」
「なにげなく~・・・・」が正しい使い方であると信じて止まない。 「なにげに美味しい」など論外だ。

◇ 次に「ハンパない」
「半端じゃない」が正解に決まってら!
お前の日本語のヘタっぷりはハンパない。

◇ 次は「あまあし」
天気予報でお馴染みの"雨足が強くなる"のあれだ。
そもそも足に関する表現は「逃げ足が速い」、「(鯖の生き腐れとも言 われるくらい)足が速い」、「(競馬の)差し足」などのように速いこ との表現だ。
同様に口は軽く、手は早く、腹は黒く、尻は軽い(重い)のが相場だ。
足の比喩特徴を述べるのに"強弱"は相応しくあるまい。
中国の古書に見える"雨脚"を採り入れたらしいが「脚」など付けないで 「雨」でよかろう。
天気予報の業界用語に文学的修辞は不要だ。

◇ 方ほう)
こんな風に使う。
食堂に入る。味噌ラーメン!と頼むとやがて店員がそれをお盆に載せて もってくる。「こちら味噌ラーメンの方(ほう)になります」
なんか耳障りな。
味噌ラーメンの方(ほう)じゃなく"味噌ラーメン"が食いてぇ。
同類の言葉に「カタチ」がある。
例えば「ご飯の後にはデザートを食べお茶を飲むカタチになります」 つまりある手順のことをカタチと言うらしい。
外国人に日本語を教えるとき難しいだろう。
◇ダイジョブ
もとは「大丈夫」だろう。
辞書を見ると「堂々として、りっぱな男。あぶなげがないさま。また、 確実なさま」とある。
ところが最近は物事を断るときにこれを使うらしい。
食堂で店員が「お冷お持ちしますか?」「ダイジョブです」
ビラやパンフを渡そうとすると「ダイジョブです」
へんな会話だ。片言の外国人と話してるようだ。

鼻濁音が出せないアナウンサーやキャスターなど美空ひばりの「りんご 追分」聞いてもっと勉強しろといいたい。
言葉にはまだまだ気になることが一杯あるが今日はこれまで。
2021.2.26

消えゆく会津弁           酒井幹夫


我々も会津を離れて半世紀以上が経ち故郷の言葉も縁遠くなりました。
過日ふといくつかの会津弁を思い出したら続々と記憶が蘇ってきて数えきれなくなったのでここに列挙してみました。
じっくり懐かしんでくんなまし、(あ、これは花魁言葉)くなんしょ。
同じ会津弁でも若松市内と周辺郡部では若干ニュアンスが異なるようです。
それと、単に方言を並べても会津弁にはならず微妙なイントネーションで繋ぐことで心地よい正調会津弁が紡ぎ出されんだがらっし~。
尚、文末に記載したWikipediaに典型的会津弁をまとめて掲載してありますがこれと重複しても面白くもないのでここに掲載されていない独自の言葉を選んでみました。
会津人の祖父母と同居歴のある人ほど合点のいく言葉が見つかるでしょう。
思い付くままに書いたので順不同です。

◇私の選んだ会津の方言(絶滅危惧種)
●はんかくせぇ → とろくさい、怪しい
●すごおり →つらら
●げんべ →藁製の長靴
●きんぺ →竹を半割にした竹スケート
●わが →お前
●まんずまんず →まぁまぁ
●ねっちょする →(よしゃぁいいのに)調子にのる、はしゃぐ
●ゆぐふる →見栄を張る
●たいしたきぃする →尊大な態度をとる
●むずせぇ →気の毒、憐れ
●やんだぐなる →嫌になる
●しぇもねぇ →しょうもない
●おだる、おだれる →折る、折れる
●ゆっつばる →結わえる
●やじゃがね →役に立たない、意気地がない
●おらいさこ うっつぁこ- →我が家に来い
●はっつける →ひっぱたく
●まってぐ、まってご →立場・状況を同じくする(兄ちゃのくせに舎弟とまってぐになっ  てる)
●でほで →出放題
●おちる →降りる
●たいちっち →じゃんけんぽん
●むくる →(じゃんけんで)後出し、手を変えるなどのズルをする
●ずっけ →  ずるい
●おんつぁ、おんば →年頃になっても縁付くことなく実家に厄介になっている男女
●どうす →ライ病(ハンセン病)
●でっころぶ →転ぶ
●ささって →あした、あさって、ささって
●あさげ →朝方、朝食
●ひるげ →昼食
●ばんげ →晩方、夕食
●あだける →ふざける、たわむれる
●そのあした →(過去に遡って)ある日のその翌日
●かんしょ →マニア、気狂い
●どんべ →どじょう
●じむぐり →小さな蛇
●あかはら →いもり
●けぇちゃにする →裏返しにする、逆向きにする
●ずほん →ズボン
●あぐど →踵(かかと)
●まけ →家系
●かすくれる →ちょっとかっこつける
●うそこく →噓をつく
●おっち →聾唖者
●みったぐね →可愛げがない
●やってくっちぇらんにぇ →やってらんね~よ!
●くすくる →(衣類などを)繕う
●どうもん → 雪で作る所謂かまくら
●さっかけ →母屋から突き出した部屋
●かずける →他人のせいにする
●すいふろ →据え風呂
●したき →  唾
●でんしんぼ → 電柱
●すかな →スカンポ(植物名)*酸っぱい野草で摘んで食べる
●くさもちや  → 女郎屋
●ためちょ →肥え溜め
●じゃっこめら →ガキめら
●びっこびっこ →片足けんけん
●かくし →ポケット
●えのご →鼠径部リンパ節の腫れ
●げね →(差別用語)非可触賤民
●のめ →ものもらい(麦粒腫)
●かすめる →いじめる
●かめっこする →(幼児が)人見知りする
●そじる →(物が)傷む
●まよう →弁償する
●とびくら →駆けっこ
●そんねェ →そうじゃない
●かたす →片付ける
●せわしね、しゃーしね →落ち着きがない

●おだちする、(ご飯などをお代わりする)おだちしらんしょ

オラは会津さ行ったら何時でも会津弁に切り替え可能なバイリンガルだがらし、ハイ。
皆さんそれぞれの記憶を辿って昔の日常に思いを馳せてください。

(自称)会津弁保存会副会長   酒井幹夫

wikipedia 会津の方言(ここをクリックしてくなんしょ) ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇2021.2.1

アフターコロナ社会はどうなる       酒井幹夫


アフターコロナの社会はどうなるのか。
多くの人がそのことを論評しているが私なりの愚考を纏めてみた。

 まず全人類、全地球的規模のカオスにより分かったことはこういう事態は軍事力では解決できないことが自明になったことだ。 防疫は国家安全保障の重要な対象項目である。 これはコロナ禍が残した大きな教訓だ。

 ◇人々の生活や市民意識
先日公園を散歩していたらweekdayにも関わらず家族連れが目立ち楽しそうにランニングやボール 遊びに興じているのが目に付き久し振りに"家族"を見た気がした。 思いがけないコロナ騒動による長期休暇を家族ぐるみで楽しんでいるのだろう。
中にはこれまでの慌ただしく人間味を欠いた人生や家族に改めて思いを致し、これからのあるべき新しい人間らしい生活様式に目覚めるきっかけになった人々もいるだろう。
生活に時間的余裕を得たことでいろいろ気付いたことは確かである。

これまでなら強行採決されていた検察庁法改正案が一旦先送りの原動力となったのも人々が時間的余裕の中で市民が政治に関心を持って政治信条をSNS等で発信した結果であろうと確信している。 市民が社会や政治との連関に多少なりとも気付いたであろうことはコロナ騒動の功績である。

 ◇産業構造
コロナ禍により産業構造にも大きな変化が起きるだろう。
自粛規制中の今を乗り越えようと各企業は様々な業務形態を工夫しているがこれがコロナ騒動の鎮静化とともに消え去るとは思えない。
今後もずっと継続して社会に残存するだろう。
アマゾンなど通販はこれからますます業績を伸ばすだろうし、例えば外食産業などはテイクアウトによる販売に主力をシフトしていくだろう。
既に出前請負業のUber eatsなどは絶好調と聞く。 通販の浸透によりデパートはじめ小売業界は衰退していく。

一方、観光業はどうか。
今までインバウンドと称して外国人観光客を多数招致して彼らの落とすカネで生業が成り立ってきた。
それが入国規制により今ではもはや存続できないまでに落ち込んでいる。今後インバウンドに頼っていた事業者には廃業と倒産の嵐が吹くだろう。
人々が新型コロナウィルス感染症に不安を抱く間は、バス、タクシー、列車、宿泊施設、アミューズメント、エンタメ施設,テーマパーク等は当分長い暗いトンネルを抜け出すのは難しい。
寄席やコンサートなどカルチャーの世界に与える影響も大きいだろう。

またこの機会に必ずしも積極的ではないにしろテレワークを導入した企業の中には意外にその使い勝手の良さから本格的導入に踏み切る企業もあるだろう。
つまり在宅勤務が増えてその結果毎朝の通勤の満員電車はある程度緩和されオフィスビルの需要の低下は免れない。
IT後進国であることが露見した我が国にとっては失地回復のチャンスとなるだろう、真っ当な政策が打ち出されれば!

急激なグローバル化による外国依存が非常に危ういことが分かった。 外国人観光客などに消費者を特化した産業は脆いことが実証されたのだ。 例えば宿泊施設や超高級なブランド牛肉の生産者は倒産するかもしれない。 生産工程を海外に移したために必要部品が不足した企業も多くこれを機会に国内回帰の機運が高まるかも知れない。 低賃金を海外に求めて製品価格で後進国と競うことはもうヤメにしよう。
BMWやベンツを見習うべきだ。
それにしてもあのハイテクがウリだったシャープがマスクを量産販売とは驚いた(現在は台湾資本である)。

 ◇超監視社会の到来
治療法のない感染症は“生命”と“自由/経済”のトレードオフ(両立し得ない)の関係にある。
感染防止に重きを置くあまり経済活動を抑止すれば民草の生活は成り立たず、さりとて経済活動を野放図に捨て置く訳にもいかない。
その均衡をどこに置くかが大きな問題になる。
中国や韓国が比較的短期間に感染を封じ込めることが出来たのは欧米諸国などでは容認できない手法を採ったからであろう。
そんなコロナ禍対策として国民をその筋の管理下におくのを容認する風潮が芽生えつつあるのが薄気味悪い。
感染経路追跡/拡大防止の手段としてスマホのアプリを利用する程度ならまだ我慢できるかもしれない。
しかし究極手段として、個々の人間の手などにマイクロチップを埋め込み政府の管理を国民に義務付ける、そんな時代がくるかも知れない。
こうなればもうマイナンバーカードのレベルではない。
住所、氏名、性別、年齢、銀行口座残高などは勿論、GPSを組み込めば個人の居場所、行動の追跡、誰と何処で会ったか、更に健康状態、持病の有無などのプライバシーを瞬時にキャッチされてしまう。
しかもこのような仕掛けは疫病騒動後も生き残り為政者に利用されるだろう。
現状でも既に年金データの流出、マイナンバーカードの個人情報漏洩が起きていることを考えればスマホレベルでのセキュリティは危険である。
このような仕組みは政府と国民との間に深い信頼関係があってこそ存在が許されるべきものであって現状では超監視社会など国民は拒絶すべき妄想に過ぎない。
2020.05.24

シンガポールの新型コロナウイルス対策の国際比較     川上 奉昭


此処、新嘉坡で、最初に新型コロナが中国湖北省武漢でアウトブレイクした報に接したのは1月の中旬初頭で、その時点で当国には武漢周辺地域からの観光客約4千人程が滞在中でした。
前回の”SARS(‘02年中国南部広東省)やMARS(‘12年中近東)”で、中国・韓国・台湾等の諸国と一緒に感染者を出していた当国のその後の動きは素速く、滞在している武漢からの観光客を早期に武漢へ送還させ、同地域からの訪問者の入国を拒否、新嘉坡人の同地域への渡航禁止も発令しました。
続いて、新型コロナの中国国内での流布動向や欧州への拡散動向に応じての、ロックダウン(国境封鎖)の処置の取り方も間断無く実施したため、3月末までは当国内の感染者も武漢由来の数名に過ぎず、一時は台湾と並び、WHOのテドロス・アダノム事務局長からも新型コロナ対応の優等国として、絶賛されるほどでした(人口が23.6百万人の台湾は、政府のその後の対応も揺るぎ無く、4月末時点での感染者数は429人、死者数は僅かに6人となっています)。
流れが変わったのは4月に入ってからで、その一つの原因は経済を重視したために、国内での新型コロナ対応の緊急事態令(国民の不要不急の外出禁止や企業活動の禁止、スポーツや文化関連ビジネス・活動の禁止や商業施設の営業の禁止等など)の発令に躊躇したことで、国内での所謂”3密の状態”を温存し、感染を助長してしまったことです。
マスクの着用の効用が、他の一部の主要国でもあったように、感染の予防には余り有効では無いとの当初の政府の解釈が、無症状者(未検査の既感染者を含む)にマスクの着用を義務付け無かったのも、マイナスに作用しました。
国外からの感染者はほぼブロック出来たにも拘らず、じわじわと国内での感染者が増えて、国民に緊急事態令が発布されたのが4/5日で、期間が ”4/7日~5/6日” に設定され(これに奇しくも日本も追随しました) 、マスクの着用も義務付けられました。
しかしながら、時既に遅きに失し、新型コロナが “外国人労働者” の間でオーバーシュート(感染爆発)し始めたのが4月中旬に入ってからで、これがより大きな二つ目の原因になりました。

新嘉坡の人口は約5.7百万人で、その構成は新嘉坡人が3.5百万人、常時当国に居住する外国人(永住者・企業の雇傭者・留学生・建設工事等労働者・メイド等)が2.2百万人と、なっています。
外国人建設工事等の単純労働者は約50万人と云われ、多くはインド・バングラディッシュ・パキスタン・ミャンマー等の国からリクルートされ、その宿舎設備は10~15人単位の大部屋での2段ベッドが主流で、トイレ・シャワー・キッチン(食事は自炊)と休憩所は共同で使用するものになっており、殆どが狭くて人口密度が高く、換気も悪い、典型的な3密の粗悪なものでした。
4月下旬の中頃から連日千人を超える感染者が続き、4月末には、累計の感染者数が2万人の大台に届くほどに急増するに及び、緊急事態令の期間も”~6/1日” までの延長を余儀なくされました。
政府は現在、大童(おおわらわ)で 、港湾コンテナヤード跡の空地や国際会議場・軍の施設内等に隔離宿舎を建設している最中ですが、収束を見るまでには未だまだ時間が掛かるようです。
5/8日で、累計の感染者が21707人、死者20人、一日の新規感染者が768人(内、8人が新嘉坡人)と、なっています ( 4/22日に1万人を超えてから、僅か2週間で感染者が倍増したことになります) 。 死者の数は日本よりも少ないですが、人口当たりの感染者は約30倍になっています。
外国人の単純労働者は自由経済の悪しき慣例で、リクルート業務は業者に丸投げされ、過大な初期費用(借金)を労働者に強い、宿舎も民間に丸投げだったので、労働者である弱者が搾取されるだけの劣悪なものになった訳です。
宿舎設備に投資した者の中には、富裕なリタイヤした元公務員などがいるそうです。
(これは日本での”技能研修員”名目での受入れ外国人労働者にも云えることで、リクルート業者に搾取を黙認し、日本人の雇用者には日本人より低賃金で働かせる利点を与え、宿舎やその他の待遇も劣悪なものになる場合が多いようです)

私たち夫婦は4/7日から自宅内に逼塞していますが、此処は幸いにして横浜の家の3倍ほどの広さがあり、住込みのメイド(ミャンマー人)も居り、マンションの敷地内にはプールや庭園もあって、裏には運河沿いに片道2.1 kmの遊歩道もあるのでウォーキングにも不足なく、ゆったりと無為の時間を過ごしたり、昼寝をしたり、読書したりの毎日です。(当地の日本人会の図書室の日本語の蔵書数は半端でなく、主に文庫本と単行本ですが、年に2 回ほど古本を処分しています。10冊で 1 新嘉坡$=80円、1 冊 8 円 ほどなので、読みもせずに買っておいたのが500 冊近くあるので、この蟄居中は助かります!)
外出禁止令で生活が一変して、生活のスタイルも変りました。食料品や日用品の殆どはオンラインで注文、宅配して貰うようになりました。
外食が禁止されたので、テークアウト(持帰り)と、デリバリー(取寄せ、宅配)がポピュラーになり、殆どの高級ホテルのレストラン・ミシュラン3星レストランから街の和・洋・中・等の大衆食堂・居酒屋までがデリバリーするようになりました。
私たちも、ランチやディナーは毎日のように、和・洋(仏・伊・西等)・中・印・越・泰・馬来・地元等の料理を、気軽に、廉価にデリバリーして貰って、喰べています。
“扨、最近の我が三五会のメールによるチャットの中で、数名の諸兄より日本に於ける ICU 数や新型コロナの PCR 検査数の実状について、不足についての嘆きや、外国からの失笑についての嘆き等での”ツイート”がありましたが、以下、今、外地に住んでいる私の意見も述べてみたいと、思います。

“ ICU “ の各国の保有数と”PCR検査”の実施数の、 日本と主要国( 米国・英国・独逸・仏蘭西・伊太利亜・西班牙・土耳古・韓国 )については、4/1日付けの”独・Statista”の統計によると、次のようになっています(人口10万人当たりのICU病床数)//4/28付け OECD発表の人口千人当たりのPCR 検査実施数)。
 米国(人口 321百万人) : 34.7床 / 16.4件
 独逸(同 83百万人) : 29.2床 / 25.1件
英国(同 67百万人) : 6.6床 / 9.9件
仏蘭西(同 67百万人) : 11.6床 / 9.1件
伊太利亜(同 61百万人) : 12.5床 / 29.7件
西班牙(同 47百万人) : 9.7床 / 22.3件
日本(同 127百万人) : 5.0床 / 1.8件
(厚生省はICUに相当する病床数は
4月末で17030床で、 : 13.5床と発表)
土耳古(同 84百万人) : 40.0床 / ━
韓国(同 52百万人) : 10.6床 / ━
中国(同1410百万人) : 3.6床 / ━
OECD36ヵ国平均 23.1件

次に、5/5日時点での各国の”感染者数と累計死者数”を記します(感染者数は人口10万人当たり)。
米 : 感染者 : 379人 / 累計死者 : 73100人
独 : 198人 / 6840人
英 : *325人 / *29800人
西 : 474人 / 26300人
伊 : 355人 / 29400人
仏 : 210人 / 25800人
土 : 118人 / 2400人
韓 : 21人 / 260人
日 : 12人 / 530人
中 : 6人 / 4640人
又、”致死率(死者数の感染者数による割合(%)”は以下の通りです。
米国 : 6.0 , 独逸 : 4.3 , 英国 : *13.3 ,
仏蘭西 : 18.8 , 伊太利亜 : 13.3 , 西班牙 : 11.7 ,
韓国 : 2.4 ,日本 : 3.6 , 中国 : 5.6
更に、”OCEDの2018年版による主要国の医師数の 比較”です(人口1000人当たりの医師数)。
米国 : 2.6 , 独逸 : 4.3 , 英国 : 2.8 ,
仏蘭西3.2 , 伊太利亜 : 4.0 , 西班牙 : 3.9 ,
韓国 : 2.3 , 日本 : 2.4 , 中国 : 1.9
土耳古 : 1.9 , OECD平均 : 3.5
扨、以上のデータからは、次の推論が成立つと思います。
1 ) 若しも、CIU病床の保有数やPCR検査実施数の多寡が、新型コロナの感染防止や封じ込めに最も有効な要素であるのならば、保有数や検査実施数の多い米国を始め、欧州諸国(独・英・仏・伊・西)、及び、最も保有数が多かった土耳古(トルコ)は、感染者数も死者数も日本より少なくなる筈なのに、実際には人口比を加味した感染者数で日本より約10倍~40倍多く、死者数も約7倍~110倍も多くなっているのは、如何してなのだろうか?
従って、この理論は単純には成り立たないと、思われます。
2 ) トルコ以外の国々は、有史以来度々の感染症禍
に遭遇してきた、感染症に対しては経験豊富な先進諸国で、ドイツに於いては、我国はその医療制度を範として国家の医療制度の確立に励んできた、謂わばモデルとしてきた国でもある訳です。そのドイツの死者でさえ我国の約20倍を超えています。
米国は、科学に、医療に、経済に、スポーツに、文化に、勿論軍事力にも、そのどの分野に於いても、ノーベル賞を含む数多の同じような同位の賞の、過半の受賞者を出すような国ですが、それでも今回は、日本の約55倍の死者を出さざるを得ませんでした。
最新の医療機器数や設備数の保有を誇り、世界最先端をゆく医療知識人を数多抱え、医師数に於いても優位にあって、然もウィルスのアウトブレークの兆しを遠く離れたアジアの地域で見守る時間の余裕があった筈の米国が、何故今回は世界最大の死者数を出す失敗をしたのか、此処では疑問だけを挙げて、推論は後述に譲ろうと思います。
3 ) 欧州の雄、独逸(ドイツ)は、今回の新型コロナ禍に於いても、政府の対応の良さや、メルケル首相が率先して国民への危機を訴える、真摯な切々とした呼び掛けが、他から(三五会の諸兄諸姉からも)高い評価を得ています。誠にその通りなのですが、他面で別な実態があることも分かっています。
当地の日本人の歳上の私の知人(80歳)に、若き日にドイツに赴任、10有余年の滞在中にドイツ人の伴侶を得て家庭を成し、その後日本、英国を経て当国に赴任、永住して在留45年になる元気な方がいます。
彼が次のようなドイツについてのエピソードを話してくれました。
「新型コロナ禍がアウトブレークする前の3月時点 で、ドイツには2000を超える病院に、28000を超え るICU病床の保有があり、ICU病床数はイタリアや フランスの2~3倍に当たり、著名な”ベルテルスマン 財団”から、”過剰設備である(質が確保されない)小 規模病院とICU 病床が国の財政負担になっている”、と云うことで、全国で病院数とICU病床数を半分以上削減すること、の提言が出されていました。
人工呼吸器が500万円、ECMOが2100万円、それを備えたICU病床が約3000万円掛り、その維持費用は一日10万円ほど掛かるそうです。取り扱いの高い知識と技術を持った医療従事者も必須で、常に欠員になりがちで、遊休設備も多いとのことです。
幸か不幸か、提言された削減も進まぬ侭に、先に新 型コロナ禍が猛威を奮うに至って、提言が無視されたために、結果的に常にICU病床の半数を新型コロナ感染者のために空けておくことが出来、欧州の他国に比べて遥かに少ない死者数で済んだと、云う訳です。
“怪我の功名”と、云うことでしょうか?
4月末でICU病床総数は40000にまで増えていますので、収束した後で又、過剰設備にならなければ良いのだがと、知人のドイツ人の奥方が呟いていました。」
「又、ドイツには北里柴三郎博士が学んだ、国立感染 症研究機関である”ロベルト・コッホ研究所(RKI,設立 1891年)”や”マックス・ファン・ベッテンコーファー研究所(設立1865年)等を含む28のウィルス研究所があり、これらのウィルス研究所と連邦政府が、8年前から未知のコロナウィルスのパンデミック(大流行)を予想、最悪のシナリオ(ワースト ケース シナリオ:連邦防災局の報告書:”変種SARSウィルスに関する報告書”)を公表して、地方自治体や医療界に準備を要請しており、今回の新型コロナに対しても、連邦政府に先駆けて、各州政府が独自のロックダウン等の緊急事態令を発布して、今日に至っています。」
ドイツは新型コロナウィルスに勝利したのでしょうか?確かに他の欧米諸国に比べると、その死者数を劇的に少なく抑えることは出来ましたが、少ないと称えられるその死者数すらも、日本に比べると人口比で約20倍の数に及んでいます。疑問が湧きます!
4 ) 欧州で最初に新型コロナウィルスのパンデミックが起きた、イタリアを見てみましょう。
ICU病床数は日本の2.5倍を保有し、PCR検査も日本の15倍!の件数が実施されています。医師数も日本の約1.5倍以上存在しています。 4月末での結果を見ると、日本に比べて人口比で、感染者数が約30倍、死者数では約115倍となっています。医療インフラは日本を優に凌いでいたのに、何故このような結果になったのでしょうか?
イタリアは積年の財政負担と財政逼迫に苦しんでおり、日本に比べて医療インフラに於いては優位ではあっても、医療財政は押さえられ、医療従事者の削減も進んでおり、実際には緊急時に充分に対処出来るような態勢ではなかったのかも知れません。
新型コロナが初めに上陸した北海岸は、ミラノやベニスに代表される有数の観光地域で、イタリアは観光業が基幹産業でした。北西にスイスとフランスとの間に、長い陸続きの国境線を抱え、EUの利点の一つでもある、相互間の人と物の移動の自由と云う縛りもありました。そして何よりも現下の低迷する自国経済に加えて、更なる景気への悪影響を与えるであろうことへの恐れが、ロックダウン(国境封鎖)と、緊急事態令の発布を遅らせ、オーバーシュート(感染爆発)に至ったと、云うのが真相だと思います。
過剰なPCR 検査の実施が、オーバーヘルミング ホスピタルズ(医療崩壊,Overwhelming hospitals)の撃鉄(ひきがね)になったと思います。病院の能力を遥かに超える、検査で判明した多数の感染者が、トリアージ(優先選別,Triage)されることなく、病院に送られてきたため、或いは自分の意思で押しかけてきたため、大幅に能力の限界を超えて、崩壊せざるを得なくなったと思われます。医療従事者の罹患、退却も続きました。他の諸国と同じように、マスクや防護服の供給源を中国に全面的に依存していたことが、それらの品不足による新型コロナ感染に拍車を掛けました。
病院の感染者の受け入れ能力を、良く把握していなかったことも一因だったと思われます。
医療崩壊が又、更に病院の能力の低下を招くと若し、検査の実施数を抑えて、更に、感染者の適切なトリアージを行って、重症感染者だけをICU病床に受け入れる戦略を取っておれば、例え検査をせずに無症状で無自覚の隠れ感染者を見逃して、野放しにすることによって一時的に感染者を増加させたとしても、病院の能力を維持しながら医療崩壊を防いでいた方が、結果的に死者の数を遥かに少なく抑えることが出来、収束も速かったのではないかと思うのですが...」
5 ) 扨、我が日本では如何だったのでしょうか?
新型コロナウィルスが中国湖北省武漢でアウトブレ ークし、世界に拡がり始めた今年の1月中旬時点での日本の医療体制は、先の比較でも示しているように、この強烈な敵を迎え撃つには、とても覚束ないような無防備な体制だったと思われます(このウィルスは実際、世界の主要国の戦史(?)上でも、最大級の難敵であったことが、後で思い知らされます)。ウィルスも又、全くその正体は不明でした。
以下は私の貧弱な脳による推論です。
• 1月末に、豪華客船”ダイヤモンドプリンセス号”の船内で、謎の感染症が発生して拡がっているとのニュースが流れ、それが武漢発新型コロナウィルスらしいと分かり始めた時、客船が横浜港への寄港を要請、繋留が決まりました。2/3日でした。我が国の”感染症対策チーム”が稼働を始めた訳です。ウィルスの特徴や感染の威力、感染経路も全く未知の状態でした。
船内の感染者を如何するのか、3千人を超える乗客と乗務員のPCR検査は如何するのか、船内での感染防止は如何するのか、無感染者を下船させるのか、船内に留めるのか、感染下で船内居住者の生活は如何するのか、米国籍の企業が所有する、英国籍の客船で起こったことの責任は何処にあるのか、その費用は誰が持つのか、ウィルス対策の指揮は誰が取るのか、それら全てのことが未定の侭に、”感染症対策チーム”がそれを担わざるを得なくなり、指揮を取り始めた訳です。 新型コロナの主力が我が国に敵前上陸する前だったことが幸いでした。
当初の右往左往ぶりは内外から多くの非難と失笑を浴びました。船内に閉じ込められた日本人を含む乗客からは、悲壮な救いの叫びが何度も呼び掛けられました。それでも、船内での対策チームの未知のウィルスとの戦いは続き、2/19日には全員のPCR検査を終え、14日間の観察期間を経て、3/6には全員の下船が終わりました。約1ヶ月の戦闘でした。
これによって、チームはウィルスとの主力戦を戦う前に、この敵との各戦闘に於ける戦い方(戦術)を学んだ訳です。後で皆んなのスローガンにもなる、“3密の忌避”、”他人との距離の確保”、”手洗いの励行”、”マスクの着用”等なども、この時に確立された戦術だったと、思っています。
この前哨戦に於いて自衛隊の医療部隊が大活躍をし、無傷で戦いを終えて夫々の配属部隊へ戻ったことを、殆どの国民は知りません。
或いはロックダウンに基づく空港で、港湾で、感染者の隔離施設で、彼等が黙々と活躍しているのも、余り知られておりません。
この経験が対策チームに、その後にこの難敵と主力戦を戦うための大量の情報と、大きな自信を与えたものと思われます。
•その後に、本格的な敵(ウィルス)の主力部隊が我が国に上陸し、対策チームがそれを如何(どう)迎え撃ってきたかについては、皆さんが良くご存知の通りなので省きますが、前述した他国との種々の比較を見て判断を下せば、我が国は全く他国に見劣りしないどころか、寧ろ、最も良く戦果を収めた国であると、誇っても良いのではないでしょうか。
当地のWHOの出先機関の知人も、多くの国際機関が、我が国のこれまでの新型コロナウィルスへの対応ぶりについて、大きな賞賛と高い評価を下していると、私に話をしてくれました。
ダイヤモンドプリンセス号での、初期の対策チームの右往左往ぶりを嘲笑していた欧米のメディアも、今は賞賛一色に変心しています。 •我が国の対策チームがこれまで良く戦っていることを認めるとすれば、その勝因は何であったのか?
私は、その最大の勝因の一つは、対策チームが我が国の医療インフラ(病院)の能力の限界を良く熟知していて、PCR検査を徒らに過剰に実施せずに、(国民の不満や罵倒に耐えて)その都度、感染者数が医療インフラの能力を超えないように、医療崩壊を防ぐことを第一に、”検査をトリアージ(選別)した戦略?”にあったのではないかと、思っています。
•“新型コロナウィルス感染症対策専門家会議”の座長は脇田隆字(国立感染症研究所所長)さんですが、副座長が良くテレビに登場する”尾身茂”さんで、彼は医師勤務の後、厚生省官僚を経てWTO関連で国際官僚となり、主に感染症を担当してきた経験豊富な専門家である、とのことです。
他にメンバーには、押谷仁・西浦博・鈴木基・岡部信彦氏等がおり、皆さん良くメディア等に出ていますが、その多くが国際官僚の感染症専門家として、本部や世界の感染症のメッカであるアフリカなどの前線で活躍してきた経験があります。
•客船での対応中は勿論、その後の国内での対応中に於いても、イタリアやスペインで現実に起きた、オーバーシュート(感染爆発)やオーバーヘルミングホスピタルズ(医療崩壊)の現状と経緯は、それこそリアルタイムで、嘗て世界の前線で死活を共にしたそれらの国の戦友から、悲痛な叫びと共に貴重な情報として伝わってきていたのではないでしょうか。
•何としても医療崩壊を防がなくてはならない ! 、医療インフラは逼迫している!、そこで採用したのが、”PCR検査のトリアージ(選別)による実施と云う戦略”でした ! (不平や不評は甘んじて受けよう!)。
•各地方の保健所の公務員が(彼等が意識することなく)大きな役割を果たしました。厚生省麾下の第一線の公務員は、低賃金ながら、押し並べて善良で、勤勉で、親切な人たちが多く、何よりも地域の医療機関(病院)の能力を熟知していました。彼らは恐らくトリアージを企図する意識なしに、医療崩壊を防ぐために唯、無心で働いたのでしょう。斯くして、“医療崩壊は辛うじて忌避することが出来た訳です!”
•もう一つの大きな勝因の一つに、私は日本人の国民性があると確信しています。
日本人の高い健康意識、高い感染症リスクへの理解、高い協調性、高い道徳心、高い自制心、高い思い遣りの心、等々、これ等の優れた国民性があってこそ、今日の結果があるのだろうと、思っています。
•世界は今、争うように国境封鎖や緊急事態の解除に向けて、舵を切り始めようとしています。
解除に向けて行動をする時、”感染者数が少ない国が最も優位に立つ”訳ではなく、”寧ろ劣位に立つ”と、専門家は云っています。
感染者数が少ないと云うことは、抗体を持つ者が少ないと云うことで、第二・第三の新型コロナウィルスの波状攻撃が襲ってくる時に、より大きな被害が出る可能性があることを指摘しています。
今こそ対策チームは、持てるPCR検査能力をフルに使って、統計に資するに値する大数量の無作為の検査を実施して、国民の抗体保有者の割合を把握して、解除の方策の一助にすべきだと思います。
治療薬やワクチンの開発は、率先して他国と協調し、早期に開発する努力をし、各国に公平に分配するよう、リーダーシップを発揮して欲しいものです。
解除に続く以前の日常生活への回帰の行動は、どの国にとっても未知の歩みで、どの国もその答えを知りません。或いは簡単に元に回帰出来るのか、果てしなき答えのない未来が続くのか、我が国も凡ゆることをその都度トリアージしながら、覚悟を決めて往くのみだと、思っています。
•専門家によれば、新型コロナウィルスを含む凡ゆるパラサイト(寄生物:Parasite)は、恒に変化をしながらその生存を期し、時に、その勢威を奮ってパラサイトホスト(宿り主:Parasite host)を脅やかすこともあるが、一旦、そのために宿り主が衰退を始めると、自ら弱毒化して宿り主との共存をはかり、宿り主との共倒れを避けると、云われています。必ず収束の秋(とき)がやって来るそうです!
•「処で、前述の比較に出ている、欧米の諸国と、アジア諸国との間のあれだけの差異は、何処から出てきたのでしょうか? 誰方かお答えを持っていますか?
私は、それが、或いはコーカソイド(コーカサス系・地中海系白色人種,Caucasoid)とモンゴロイド(蒙古系黄色人種,Mongoloid)にあるのではないかと、疑ったりしているのですが ?... “コーカソイドのDNAが、モンゴロイドのそれよりも、何等かの要因で新型コロナウィルスに、より感染し易いとか?...” そんなことないか ⁈
“個人の行動規範とか、個人としての権利意識とか、が、民主主義や自由主義を自ら勝ち取ってきた経緯の違いか、勝ち取ってからの年数の違いか、夫々のカテゴリーの個人が無意識に持っているものの差異から出てくるのではないか?と、思ったりいます。
此方に居ても、コーカソイドの人たちは、法で規制しなければ、なかなか統制が出来ないなと、思うことに屢々出会うことがあります。 従って、今回のようなパンデミックに遭遇した時に、政府の国境封鎖や緊急事態令の初期の発動の遅れが、例え僅かに数日のことであっても、取返しの効かないような数字になってしまうのでは、ないでしょうか?
コーカソイドの人たちには、刑罰の裏付けがない自粛要請の法律では、人々を律することは出来ません! 従って又、個人の権利を規制するには当然、補償が付いてくる訳です !」
2020.05.09

新型コロナウイルスの情報と予防     平野 彰(引用投稿)


みなさん、これを共有して、みんなで助け合いましょう。
新型コロナウイルスの情報と予防
ウイルスは生物ではありません。タンパク質の遺伝子(DNA)です。そ れが、油脂(油)の層に包まれています。眼球や口の中の粘膜に付着 すると、細胞に侵入し、遺伝子情報をウイルスのものに書き換えます。 その細胞が増殖することで、ウイルスは急激に増えます。
ウイルスは生物ではないので死にません。しかし、タンパク質の分子なので、破壊することができます。破壊方法は、温度と湿度、それとウイルスが付着している素材によります。
ウイルスは薄い油脂に覆われただけの非常に壊れやすい物質です。
石鹸や消毒液で壊すことができます。石鹸の泡が脂質を切り裂きます。
(だから、たっぷりの石鹸で20秒以上こすり洗いをする必要があるので す。)油脂の層を溶かすことで、タンパク質分子は分解し壊れます。
熱も油脂を溶かします。25℃以上の温水で手や服などを洗うと、 なお、良いです。温水は石鹸をよりよく泡立てます。
アルコール溶液は 65%以上のもであれば、ウイルスの油脂を溶かします。
漂白剤もタンパク質を内側から直接破壊します。
過酸化水素水は石鹸やアルコールや塩素ほどの効果はありません。
過酸化水素水はウイルスのタンパク質を破壊しますが、肌を痛めます。
殺菌剤は効果がありません! ウイルスはバクテリアのような生物で はないので、抗生物質で殺すようなことはできません。
着た服やシートを絶対にふらない。(ウイルスが飛び散る)
多孔質な表面に付着したウイルスは3時間。
銅や木材 ~3 時間
ダンボール ~24 時間
プラスチック 72 時間 活性しています。
羽毛等のハタキで舞い上がったウイルスは空中伝達物資として、 3時間活性し続けます。
ウイルスは屋外の低温の場所、冷房の効いた、家屋や車の室内、 湿気、暗いところで、活性状態が続きますので、環境を暖かくし、 乾燥させ、明るくすることが効果的です。
紫外線の照射も、ウイルスの付着が疑われるマスクなどに効果があります。 が、紫外線は皮膚の脂肪を溶かし、発がん性もあります。
ウイルスは健康な皮膚を通過することはできません。
酢は役に立ちません。(油脂を溶かす事ができないからです。)
ウオッカなどの蒸留酒は効きません。(40%しかない。65%必要。) リステリンは効きます。(65%のアルコールだから。)
狭い処程、ウイルスは集中しますので、窓を開け、自然換気が大切です。 繰り返して申し上げますが、分泌液や粘膜、食品、鍵、ドアノブ、スイッチ、 リモコン、携帯電話、腕時計、机、テレビ、等 触る 前にも後にも手を洗います。 お風呂に入る前にも後にも手を洗います。
手をよ~く洗ってから、適度に乾燥させ、肌のしわに隠れているかもしれな いので、保湿クリームをぬると、なお良いでしょう。
また、爪は短く切ります。(ウイルスが潜めないように) この情報が役立つことを願っています。
尚、本対処法は米国ジョンズ・ホプキンズ大学がまとめたものです。
2020.04.17

新型コロナウィルス考     五十嵐久芳


今回のウィールスに関して、今までの情報より(新聞やネットなど)自分のために整理してみました。

コロナウィールスは現在知られているもので、約40種。
今までのコロナウィールスで人に感染するのは6種類。そのうち4種類は通常の風邪を引き起こすウィールス。
その他の2種類は2002年中国、東南アジアで流行したSARS(約1年で終息したが、その理由は不明)。
2012年以降主に中東地域で流行した致死率30%のMERS。病原体はSARSと似て、今も細々続いています。
この二つの高い病原性についてはいまだによくわかっていないのが実状です。

今回のコロナウィルスはこれまでとは異なる7番目のコロナウィールスと分かり、「新型」と呼ばれています。

コロナウィールスの経過
1930年代鳥、40年代マウスと豚からコロナウィールスは分離された。それ以降、犬、牛、猫、キリン、ラクダなど確認されています。
動物の生死に関わる危険なタイプもいくつか報告されています。例えば豚流行性下痢は哺乳期の子豚がかかると重い脱水症状となり、死亡率は100%になることもある。
一般に種を越えて感染することは殆どありません。コロナウィールスがヒトから分離されたのは1960年代です。

(余談)ウィールスそのものは人類の天敵で、人類誕生から続いている。人類誕生は約20万年前ですが、ウィールスは40万年前から生き抜いてきた強者です。人類に対抗できるよう変化することです。侮ることはできません。

今回の新型コロナウィールスのいやらしいところ
◎収束する時期が見えないこと。

◎ウィールスそのものは比較的弱いと言われ、感染しても自覚症状がないことがあり、自分が保菌者とは認識できず、まわりの人にうつしてしまう。そして人により自覚症状がないまま治ってしまう。

◎人に感染する前出の6種類のうち4種類は主に子供が感染しますが、他の2種類と今回の新型は大人が多いことも謎です。もし、大人の方が感染した場合、命に係わるとすれば、大人の方が免疫に関し成熟しているので、過剰な免疫反応により重症化しているのかも分かりません。(?)

◎効く薬がなく、新たにワクチンを開発すると約1~2年はかかるでしょう。

従って、自分で自分を守るしかない。

尚、ノーベル賞受賞された山中伸弥さんが個人的に(京都大学やIPS細胞研究所には関係なし)新型コロナウィールスに関し情報提供されていますので、参考にして下さい。
URLを下記に示します。
山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

2020.04.02

ドイツ メルケル首相の演説全文       高橋千代丸(引用投稿)

 親愛なるドイツ国民の皆さん!
現在、コロナウィルスは私たちの生活を著しく変えています。
日常生活、公的生活、社会的な人との関わりの真価が問われるという、これまでにない事態に発展しています。
何百万人もの人が職場に行けず、子供たちは学校や保育施設に行けない状況です。劇場、映画館、店などは閉鎖されていますが、最も辛いことは、これまで当たり前に会っていた人に会えなくなってしまったことでしょう。
このような状況に置かれれば、誰もがこの先どうなるのか、多くの疑問と不安を抱えてしまうのは当然のことです。

このような状況の中、今日、首相である私と連邦政府のすべての同僚たちが導き出したことをお話ししたいと思います。 オープンな民主主義国家でありますから、私たちの下した政治的決定は透明性を持ち、詳しく説明されなければなりません。決定の理由を明瞭に解説し、話し合うことで実践可能となります。
すべての国民の皆さんが、この課題を自分の任務として理解されたならば、この課題は達成される、私はそう確信しています。 ですから、申し上げます。事態は深刻です。どうかこの状況を理解してください。
東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、我が国においてこれほどまでに一致団結を要する挑戦はなかったのです。
連邦政府と州が伝染病の中ですべての人を守り、経済的、社会的、文化的な損失を出来る限り抑えるために何をするべきか、そのためになぜあなた方を必要としているのか、そしてひとりひとりに何が出来るのかを説明したいと思います。

伝染病について私がこれから申し上げることは、ロベルト・コッホ研究所のエキスパート、その他の学者、ウィルス学者からなる連邦政府協議会からの情報です。
世界中が全力で研究していますが、まだコロナウィルスの治療薬もワクチンも発見されていません。 発見されるまでの間に出来ることがひとつだけあります。
それは私たちの行動に関わってきます。つまり、ウィルス感染の拡大の速度を落とし、その何カ月もの間に研究者が薬品とワクチンを発見できるよう、時間稼ぎをするのです。もちろん、その間に感染し発病した患者は出来る限り手厚く看護されなければなりません。

ドイツには優れた医療制度があり、世界でもトップクラスです。
しかし、短期間に多くの重症患者が運び込まれた場合、病院には大きな負担がかかります。それは統計上の単なる抽象的な数字ではなく、父または祖父、母または祖母、パートナーであり、彼らは人間です。
そして、私たちはすべての人の命に価値があることを知るコミュニティで生活しているのです。
まずこの場を借りて、医師、そして看護施設、病院などで働くすべての方にお礼を申し上げます。あなた方は最前線で戦っています。この感染の深刻な経過を最初に見ています。毎日、新しい感染者に奉仕し、人々のためにそこにいてくれるのです。あなた方の仕事は素晴らしいことであり、心から感謝します。

さて、ドイツでのウィルス感染拡大を遅らせるために何をするべきか。そのために極めて重要なのは、私たちは公的な生活を中止することなのです。
もちろん、理性と将来を見据えた判断を持って国家が機能し続けるよう、供給は引き続き確保され、可能な限り多くの経済活動が維持できるようにします。
しかし、人々を危険にさらしかねない全てのこと、個人的のみならず、社会全体を害するであろうことを今、制限する必要があります。私たちは出来る限り、感染のリスクを回避しなければなりません。
すでに現在、大変な制限を強いられていることは承知しています。イベントは無くなり、見本市、コンサートは中止、学校も大学も保育施設も閉鎖、公園で遊ぶことさえ出来ません。
州と国の合意によるこれらの閉鎖は厳しいものであり、私たちの生活と民主的な自己理解を阻むことも承知しています。
こういった制限は、この国にはこれまであり得ないことでした。 旅行や移動の自由を苦労して勝ち取った私のような人間にとって(注※メルケル首相は東独出身)、そのような制限は絶対に必要な場合にのみ正当化されます。民主主義国家においては、そういった制限は簡単に行われるべきではなく、一時的なものでなくてはなりません。今現在、人命を救うため、これは避けられないことなのです。 そのため、今週初めから国境管理を一層強化し、最も重要な近隣諸国の一部に対する入国制限を施行しています。

経済面、特に大企業、中小企業、商店、レストラン、フリーランサーにとっては現在すでに大変厳しい状況です。今後数週間は、さらに厳しい状況になるでしょう。しかし、経済的影響を緩和させるため、そして何よりも皆さんの職場が確保されるよう、連邦政府は出来る限りのことをしていきます。企業と従業員がこの困難な試練を乗り越えるために必要なものを支援していきます。
そして安心していただきたいのは、食糧の供給については心配無用であり、スーパーの棚が一日で空になったとしてもすぐに補充される、ということです。スーパーに向かっている方々に言いたいのです。家にストックがあること、物が足りていることは確かに安心です。
しかし、節度を守ってください。買い溜めは不要で無意味であり、全く不健全です。
また、普段、感謝の言葉を述べることのなかった人々に対しても、この場を借りてお礼を申し上げます。スーパーのレジを打つ方々、スーパーの棚に商品を補充される方々は、この時期、大変なお仕事を担われています。私たち国民のためにお店を開けていてくださって、ありがとうございます。

さて、現在急を要すること、それはウィルスの急速な拡散を防ぐために私たちが効果的な手段を使わない限り、政府の措置は意味を持たなくなるということです。私たち自身、誰もがこのウィルスに感染する可能性があるのですから、すべての人が協力しなければなりません。
まず、今日、何が起こっているかを真剣に受け止めましょう。パニックになる必要はありませんが軽んじてもいけません。
すべての人の努力が必要なのです。 この伝染病が私たちに教えてくれていることがあります。
それは私たちがどれほど脆弱であるか、どれほど他者の思いやりある行動に依存しているかということ、それと同時に、私たちが協力し合うことでいかにお互いを守り、強めることができるか、ということです。
ウィルスの拡散を受け入れてはなりません。
それを封じる手段があります。お互いの距離を保ちましょう。
ウィルス学者は明確にアドバイスしています。握手をしてはいけません。丁寧に頻繁に手を洗い、人と少なくとも1,5メートルの距離を置き、出来るだけお年寄りとのコンタクトを避けましょう。
お年寄りは特にリスクが高いからです。
この要求が難しいことであることは承知しています。こういった困難な時期にこそ、人にそばにいてもらいたいものですし、物理的な近接、触れ合いこそが癒しとなるものです。残念ながら、現時点ではそれは逆効果を生みます。誰もが距離を置くことが大変重要であることを自覚しなくてはなりません。
善意のある訪問、不必要な旅行、これらはすべて感染を意味し、行ってはならないのです。
専門家が「お年寄りは孫に会ってはいけない」と言うのには、こういった明白な理由があるからです。
人と会うことを避ける方は、毎日たくさんの病人の看護をしている病院の負担を軽減させているのです。
これが私たちが人命を救う方法なのです。
確かに難しい状況の人もいます。世話をしている人、慰めの言葉や未来への希望が必要な人をひとりにはさせたくはありません。私たちは家族として、あるいは社会の一員として、お互いに支えあう他の方法を見つけましょう。
ウィルスが及ぼす社会的影響に逆らうクリエイティブな方法はたくさんあります。祖父母が寂しくないように、ポッドキャストに録音する孫もいます。愛情と友情を示す方法を見つける必要があります。Skype、電話、メール、そして手紙を書くという方法もあります。郵便は配達されていますから。
自分で買い物に行けない近所のお年寄りを助けているという素晴らしい助け合いの話も耳にします。この社会は人を孤独にさせない様々な手段がたくさんある、私はそう確信しています。
申し上げたいのは、今後適用されるべき規則を遵守していただきたい、ということです。政府は常に現状を調査し、必要であれば修正をしていきます。現在は動的な情勢でありますから、いかなる時も臨機応変に他の機関と対応できるよう、高い意識を保つ必要があります。そして説明もしていきます。 ですから、私からのお願いです。どうか私たちからの公式発表以外の噂を信じないでください。発表は多くの言語にも訳されます。

私たちは民主国家にいます。
強制されることなく、知識を共有し、協力しあって生活しています。これは歴史的な課題であり、協力なしでは達成できません。 私たちがこの危機を克服できることは間違いありません。
しかし、いったいどれほどの犠牲者となるのでしょう?どれだけの愛する人々を失うことになるのでしょう?それは大部分が今後の私たちにかかってきています。
今、断固として対応しなければなりません。
現在の制限を受け入れ、お互いに助け合いましょう。
状況は深刻で未解決ですが、お互いが規律を遵守し、実行することで状況は変わっていくでしょう。
このような状況は初めてですが、私たちは心から理性を持って行動することで人命が助けられることを示さなければなりません。
例外なしに、一人一人が私たちすべてに関わってくるのです。 ご自愛ください。そしてあなたの愛する人を守ってください。ありがとうございます。

名門高校の校風と人脈     河野 八郎

会津高校についてはオラの友人の親友である週刊エコノミストの猪熊建夫記者 (オラも彼に頼まっちぇ取材協力したことあり)が2012年7月から「名門 高校の校風と 人脈」と云う記事を同誌に執筆し、昨年8月に完了する迄全301回掲載。
その第50回(2013年7月2日)で会津高校を取り上げて掲載その記事を 送って来て呉れただからし。 第一回は都立新宿高校で最終回は都立西高校。 福島県の高校で取り上げられたのは明治時代に県立一中として出来た現在の安 積高校と会津高校だけだからし。 当時この記事を貰った時、確か高橋、遠藤両兄を含む一部の人には転送したけ んじょ、ホームページ功労者の貴兄(当hp編集者)に送った記憶がねぇもん で、転送してみっから読んで見てくなんしょ。
内容的にはホームページのどっか片隅にでもちょっくら載せておいても良かん べかと思ってんだけんじょ、もし載せてもいいなら執筆者に掲載許可を取って おくべ。 (その後執筆者の同意を得たのでここに掲載します・・・・・・編集者)

以降 【元毎日新聞記者、現フリージャーナリスト 猪熊建夫氏執筆による ・ ・・・・全文 週刊エコノミスト「名門高校の校風と人脈」13年7月2日号第50回 会津 高校】
NHKの大河ドラマ『八重の桜』の影響で、会津が観光ブームになっているとい う。ドラマは、理不尽にも朝敵=賊軍に追いやられてしまった幕末の会津藩の 悲劇を、会津藩士の娘に生まれた山本八重の前半生を通じて描いている。
明治になっても会津は薩摩・長州閥の官軍=新政府に何かと疎んじられるのだ が、実は会津高校は、前身の会津中学の創立時から苦難のスタートを強いられ ている。
福島県は幕末、計11の藩が林立していた。断トツの大藩は会津・松平家23 万石であった。
だから他県の例にならえば、福島県の県庁と県立一中は会津に 設置されてしかるべきだった。
だが、明治政府は県庁を福島にもってきた。福島藩はたった3万石の小藩にす ぎなかったが。また県立の最初の中学は、守山藩の郡山に創設した。現在の安 積(あさか)高校である。
守山藩はやはり2万9千石の小藩で、水戸徳川家の 支藩にすぎなかった。親藩だったが、戦わずしていち早く官軍側に寝返ってい る。
会津中学は1890(明治23)年に私学として開設された。1899(明治 32)年にようやく県に移管されて、今日の会津高校の前身となった。
ただし 県立二中(現磐城高校)、県立三中(現福島高校)に次ぐ「四中」にはさせて もらえなかった。明治新政府により忌避されたのである。 司馬遼太郎は『王城の護衛者』で、「会津松平家というのは、ほんのかりそめ な恋から出発している」と書いている。
会津高校がナンバースクールになれな かった淵源は、この「かりそめな恋」にある、といっても過言ではないのだ。
徳川2代将軍秀忠といえば、やはりNHKの11年の大河ドラマ『江 ーー 姫た ちの戦国」のヒロイン・江が3度目に嫁した相手である。
だが、江の死後、秀 忠に婚外子がいることが判明した。保科正之で、のちに会津の初代藩主となっ た。
つまり、正妻である江に隠れて秀忠が浮気をしたことで、会津藩が誕生し たのである。
3代将軍家光(江が生んだ子)はこの異母弟を深く信頼し、正之は家光の死後 、その遺命により4代将軍家綱の将軍補佐役(大老格)として支え、「パック ス・トクガワーナ(徳川による平和)」の礎を築いた。
以来、会津藩は徳川宗 家にたいするロイヤリティーがめっぽう強く、「将軍を一心大切にせよ」が代 々、藩の家訓となった。
200年以上も経過した幕末動乱期になっても、会津藩はその家訓をかたくな に守った。
徳川幕府に忠誠を尽くした会津藩は、官軍(薩長)にとって怨念の 標的となってしまった。悲劇の地になった謂れである。
その累が会津中学の設 立にまで及んだのである。 会津藩士の息子でのちに東京帝国大総長になった山川健次郎らが中学校設立の 運動に立ち上がり、これを旧幕臣の文部大臣・榎本武揚がバックアップして、 ようやく私立会津中学としてスタートしたのであった。
北関東の旧制中・旧制高女を前身とする伝統高校は、1948(昭和23)年 の学制改革でも男女共学に踏み切らなかった。それは現在でも続いている。
東 北地方の伝統校も長らく男女別学が続いていた。しかし、この10年ですべて が男女共学化した。
新制会津高校は、ぐらついた。1951(昭和26)年に女子に門戸を開き、 13人を迎え入れた。5年後には、共学を廃止し、男子校にもどった。
福島県 内の公立伝統高校が順次、共学化していくのに歩調を合わせ、50年弱たった 2002年に会津高校もあらためて男女共学制を導入した。
現在では、男子5 5・女子45という比率の生徒数になっている。 校是は「好学愛校文武不岐」である。目指す生徒像のひとつに「気品を備え、 『会津人』としての粘り強さ、礼儀正しさ、奉仕の精神を有する生徒」を掲げ ている。
13年の大学入試では、京都大に1人、東北大に14人が合格している。約2 0年前には東京大合格者が福島県内の高校でトップだったこともある。 会津若松市は福島県内の奥深くにあるため、東京電力福島第1原子力発電所の 過酷事故の直接的な被害は受けていない。しかし、事故後に動向が頻繁にニュ ースに取り上げられる卒業生がいる。
12年9月から環境省の原子力規制委員 会初代委員長(当時)に就任している田中俊一である。
田中は東北大・原子核工学科に進み、日本原子力研究所に長く勤めた。民主党 政権のもとで委員長に就任した際には「原子力ムラの人間ではないか」と批判 されたが、自民党政権下の現在では「唯我独尊に陥っている」と原発早期再稼 働を主張する推進派からの批判が絶えない。
すっかりニュースから遠ざかった卒業生は、衆院議員として当選14回を続け た渡部恒三である。
「政界の御意見番」「平成の水戸黄門」というキャッチで 、テレビで洒脱なコメントを披露してきたが、2012年12月の衆院選を機 に政界を引退し、会津に引っ込んだ。
政治家では、自民党の実力者でありながら金権政治には無縁のクリーンさで知 られた伊東正義という卒業生もいた。
外相や内閣官房長官などを歴任、198 9年にリクルート事件で首相を退任した竹下登(島根県立松江中・現松江北高 校卒)の後任に押され固辞した際の「本の表紙を変えても、中身を変えなけれ ば・・・」というフレーズが有名である。
官界で活躍した人物としては、初代最高裁判所長官を務めた三淵忠彦が旧制会 津中学から山形県立旧制荘内中学(現鶴岡南高校)に移った。鉄道省の技術官 僚だった黒河内四郎は東京高速鉄道の新橋 ーー 渋谷間の地下鉄設計・建設を 指揮した。現在の地下鉄銀座線の一部である。
柏村信雄は警察庁長官を、やは り警察官僚出身の川島広守は、内閣官房副長官やプロ野球コミッショナーをし た。12年12月に死去した。
経済界では、日曹コンツェルン創業者の中野友礼、大蔵官僚出身で日本不動産 銀行の初代頭取をした星野喜代治、大成建設社長をした本間嘉平、旭硝子社長 をした倉田元治、秋田銀行頭取をした前田実らが卒業している。
伊藤文大はク ラレ社長、北村清士は東邦銀行頭取である。
新井田伝は、父が会津若松市内に開店した食堂を、ラーメンチェーンの「幸楽 苑」として拡大させ、東証1部上場企業に育て上げた立志伝の持ち主である。
学者では、政治学、理論経済学、法社会学など幅広い学問領域をこなした小室 直樹、国立天文台副台長の天文学者・渡部潤一が著名である。小室は母子家庭 で貧しく、前述の同級生渡部恒三が生活を援助した。 さらに、梅毒の研究をした医学者で大阪医科大学長をした松本信一、歯学者で 日本大学総長をした鈴木勝、農林経済学者で京大教授のあと平安女学院院長を した菊地泰次、国際法学者で青山学院大学長をした大平善梧らもOBである。
筆者は京大の学生時代に菊地の講義を受けた。 偉人伝で知られ、新千円札の肖像にもなっている細菌学者野口英世は、自筆履 歴書には私立会津中学に課外特選生として通学したことが記されているが、学 校側の記録には残っていない。
文化人では、芥川賞受賞の小説家室井光広、映画監督の仁科熊彦、映画カメラ マンで「男はつらいよ」の撮影をした高羽哲夫、作詞家の石原信一らが卒業し ている。牧師の矢部喜好は、良心的兵役拒否を日本で初めて行った人物である 。
若手では、作詞・作曲、サンボマスターの山口隆が卒業している。福島県出身 の4人でバンド「猪苗代湖ズ」を結成し、東日本大震災のチャリティー・ソン グを作って、11年大晦日のNHK紅白歌合戦に出演した。 スポーツでは、ハーフマラソン日本記録(1時間0分25秒)を持つ佐藤敦之 がいる。
08年の北京五輪マラソンでは76位の最下位だったが、会津魂を胸 に完走した。ゴール直後には、いつものようにコースに向かって最敬礼をし、 観衆の共感を誘った。

第14回【会津歴史探訪の旅】ルポ    遠藤利信


    第1日目(ここをクリック)スマホ未対応
    第2日目(ここをクリック)スマホ未対応

【梗塞、拘束、校則 どれもいやだね!!】     酒井幹 夫


我々の世代は大部分の方々が何らかの健康上のトラブルを抱えていることでし ょう。
そんな中、健康には気を遣っていたはずの小生もやられてしまいました。
諸兄諸姉の参考になればと思いその一部始終をご紹介します。
去る3月26日、友人達とファミレスでランチの最中に、なんだか舌の先が良 く動かず滑舌が悪いのに気がついた。
食べ物のせいかと思い周りに聞いて見たがそんなことはないという。
気にしつつもその日は何とかごまかして一日を終えた。
一夜明けて朝に外出したところ途中で右脚が動きにくいのに気がついた。
仕方がないので帰宅して良く自身の体に注意を払ってみたら右手もヘンで字が 思うように書けない上に呂律も??である。
おやおやこれはこれは典型的な左脳の障害ではないか。
それから地元の大手病院に診察に行ったのだがこれがまた極め付きの「教条主 義」の病院で紹介状持参しなければ診察はしないと拒否されてしまった。
明らかに右半身の麻痺と呂律が怪しい患者への対応がこれである。
困った病院である。
それならばと市内の中小病院を当たって見たがあいにく殆どが休診日でとりつ く島なし。
止む無く掛かりつけの東京信濃町の慶応病院に脚を引き摺りながら訪院し事情 を話したところさすがに受診できた。

早速頭部MRIやCTスキャン等の所見の結果は、明確な梗塞の痕跡は見当た らないが症状からして脳梗塞だからとすぐに入院を勧められた。
で、一度はその気になったものの入院後のケアは老妻に頼るわけで、諸々の利 便性を考慮すれば遠方よりは近場の先程の「教条主義」病院がマシかと慶応病 院の紹介状と検査データの入ったDVDをタガッテ行ったら今度は問題なし。
収容された病室はSCUという9人部屋で同じような罪状の服役囚で満床。 過去に
ICU:Intensiv Care Unit 集中治療室
CCU:Coronry Care Unit 急性心筋梗塞や狭心症、心臓弁膜症、急性心 不全などの心疾患治療室
はおなじみの呼称で聞き覚えはあったがSCUは初めてだったので調べて見た 。
SCU(Stroke Care Unit)脳卒中対応の治療室
    因みに脳梗塞、脳内出血、くも膜下出血などを脳卒中と総称するそう です。(Strokeには卒中という意味があるらしい)
私が入った時点で満床状態。私以外?はみなさん高齢者(笑)
すぐにトロンボキサン合成酵素阻害剤、薬名オザグレルNa点滴(要するに、 俗にいう”血液サラサラ”にする薬)という薬を射たれてトイレ以外絶対安静 を宣告されました。
言うことを聞かない患者はベッドに拘束です。
(梗塞で拘束なんざシャレにもならねぇ。)
かくしてほぼ10日間の入院加療の後放免されました。
幸いなことに軽症で済んだので簡単なリハビリだけで後遺症もほとんど残らず 無事生還できたことはラッキーでした。
みなさんご存知のあの長嶋監督もこの病の罹患者で彼の場合はかなりの 後遺症が残ったようです。
折しも天皇退位に伴う新元号の話題が出る昨今、30年前に「平成」 の2文字をテレビで公表した小渕首相を思い出しますが、彼もこの病を 発症しました。
不幸にも彼の場合は患部が脳幹という致命的部位だったので不帰の人と なってしまいました。

脳梗塞という病気には幾つかの種類があります。
ラクナ梗塞:脳の細い血管が詰まって起こる脳梗塞【小梗塞】 (私はこのタ イプ)
アテローム血栓性脳梗塞:脳の太い血管が詰まって起こる脳梗塞【中梗塞】
心原性脳塞栓症:脳の太い血管が詰まって起こる脳梗塞【大梗塞】  心房細動など心疾患に伴う脳梗塞  (長嶋監督はこのタイプ)ということです。

最後に何故にこんな病に罹ったのか再発予防のために日常生活を 検証してみました。
まずタバコは止めてから50年。もう時効でしょう。
酒もほとんど飲まない不調法モノ。
血圧は毎朝晩測定してるが70/120近辺で異常ナシ(降圧剤ナシ)。
普段の食生活はかなりの減塩食で病院食も違和感なく美味しかった。
 (ちなみに病院食は1日6グラム)
運動は週4日スポーツジムに筋トレ通い。
健康診断での血液検査値は全ての項目で基準値以下でクリアー。
睡眠時間は6時間前後。
ざっとこんな塩梅でまるで健康優良爺の自慢話じゃあーりませんか!
つらつら惟(おもんみ)るに結局は老化現象の為せる仕業でしょう。
肉体五臓六腑を構成する37兆個といわれる細胞の経年劣化には抗すべく もナシといういうことでしょう。

因みに血液検査で基準値はクリアーしていても気をつけないといけないのが コレステロール値。
ご存知、「善玉コレステロールHDL(high-density lipoprotein)」と「悪玉 コレステロールLDL(low-density lipoprotein」があり個々の数値は安全圏で もその存在比が重要と説く専門家もいる。
要はHDLとLDLの比(LDL/HDL)、これをLH比と言い1.5程度が安全圏だそうであ る。
LH比は悪玉と善玉のバランスのことでそれぞれの値は正常値であっても必ずし もダイジョーブとは言えない。
しかるに私の場合はこの値が約3.0であった。
実は3.0とういう値は「かなり危険」な領域であり動脈硬化が進んだ状態だと か。
この辺が健康診断の盲点かもしれない。
皆様方もくれぐれもご要慎あるように。
小生のこの体験を以て他山の石とされ健康に留意し健やかな日常を一日でも長 く送って下されば幸甚です。

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【いわゆる地球温暖化は事実なのか?】    酒井幹夫


 以前からこの説に疑念を抱いていたのだが、はっきり言ってウソっぽい。 メディアによる世の風説に洗脳された人々にとっては「今更何をとぼけ たことを」と思うかもしれない。
「地球温暖化は起きていない」と主張する説はすべて異端として排除さ れているのだから無理もない。
「原発は安全である」という神話に異論を唱える学者や知識人の意見は 封殺されてきた経緯に酷似している。
つまり”地球は温暖化されている”ことにしないと立場を失う人達がい るということである。
そう!「温暖化ムラ」と称する勢力が幅を利かせているというのが実態 のようだ。
”温暖化対策費”として補助金、助成金、研究費がばら撒かれているか らだ。

データを見るとCO2は僅かにではあるが産業革命以来の上昇傾向を続けて いるのは事実である。
しかし気温はここ15年間上昇はしていないどころか若干下がり気味な のだからおかしな話しではある。

そもそも「地球温暖化」を言い出したのは国連機関IPCC

「気候変動に関する政府間パネル(きこうへんどうにかんするせいふか んパネル、英語:Intergovernmental Panel on Climate Change、略称: IPCC)は、国際的な専門家でつくる、地球温暖化についての科学的な研 究の収集、整理のための政府間機構(wikipedia)」

として発足したものである。
「地球温暖化」というのはハナから政治テーマであって科学のそれでは ない。
このように創設時のコンセプトが「温暖化」が前提なのだからそれを否 定する説は排除されるのは当然と言えば当然だろう。
しかし、いやしくも「科学的な研究」というからには対立意見も斟酌し なければ正規の科学/学問とは言えまい。
”似非科学”である。
 こうして世界中の御用学者が都合のいい部分だけをつまみ食いして保身 に走っている。
心ある学者はこの組織から脱退しつつあるのが現状である。
その辺を心得たアメリカがさっさとパリ協定(COP)から離脱したのは 流石である。

近年、発展目覚ましい古生物学、古気象学、地質学、天文学の知見を駆 使して地球の過去が解明されつつある。
それによると地球は過去に5回の生物絶滅に瀕したことがあり、そのひ とつが6500万年前の隕石衝突によるものなどと言うことが分かって きた。
それらの研究によると地球気候は約10万年周期で寒暖を繰り返してい るそうである。
その寒暖の間にも間氷期と言われる冷えた気候があり、いま地球はその 間氷期にさしかかっていてむしろ今後の寒冷化が危惧される。
70億の人類の食糧を賄うには温暖化は有難い話で、さらにCO2濃度の 上昇も植物の活性化に好都合なのである。

この青い天体の寄生生物に過ぎない人間ごときが気候を決められるはず がない。
地球の気象はすべて太陽の活動状況と宇宙からのいわゆる宇宙線によっ て決定づけられるというのが真相だろう。
太陽の活動にともなって放出される莫大な熱エネルギーの少しの揺らぎ や宇宙の遥か彼方から飛来する宇宙線等によって地球の気候は激変する。
 私たちがCO2の排出を抑制するのであれば、その目的は温暖化防止のためで はなく、限りある貴重な化石燃料資源を早期に枯渇させないためである。
後世代が引き継ぐものが廃鉱と放射能ではあまりにおぞましい未来世界 だろう。
この説に納得できない、詳しく知りたい方は
        深井有 著 「地球はもう温暖化していない」 平凡社 ¥820 を 一読されるがよろしかろう。

下記URLも参考になるだろう。
ホッ ケースティック曲線論争に見る地球温暖化仮説の人間模様
                                          2017年8月30日


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【2016年9月年11日会津高校同窓会講演メモ    黒岩正明】



「野球部時代+その後の人生」
はじめに
只今ご紹介にあずかりました昭和35年、高校12回卒業の黒岩正明です。  会津高校野球部後援会会長の田沢豊彦さん、会津高校同窓会副会長の戸川稔朗 さん、同級生で会津高校同窓会の斉藤健君などからお誘いがあり、本日ここに 伝統ある我が会津高校同窓会総会の場に立たせて頂いている訳であります。  私、昭和35年に会津高校を卒業しましたがその後、特に評価に値するような 研究や業績を成し遂げた訳でもないのですが、唯一、昭和34年の春、今からも う57年前もの昔の話になりますが、運よく春の甲子園選抜高校野球大会に会津 高校野球部が出場する幸運を掴んだ時の投手でありまして彼にその時の話をさ せてみよう、というのが本日ここにお呼びして頂いた動機だと推察しておりま す。

最近在京会津高校同窓会でお会いする我ら会津高等学校や会津中学が誇る全国 版の先輩や後輩方には、ご存じ、毎日テレビ画面に映るNHK解説委員主幹の柳 沢秀夫氏、時折顔をお見せになる原子力規制委員会委員長の田中俊一氏、さら には4年前にお亡くなりになった元日本プロ野球コミッショナーの川島廣守大 先輩などがおられますが、お元気な彼らの姿をテレビで拝見するたびに「おー 会津高校の後輩だよ!!」と家の中で叫んでいると、「ホラ、又会津高校賛歌 が始まった!!」と妻に老化現象を指摘されることが頻繁になりました。
 京都の医師中村仁一先生の言を拝借すると、私も「繁殖年齢を過ぎて、賞味 期限が切れ、刻々と自然死に向かいつつある」後期高齢者に突入しているので すが、本日ここで「なんか昔の事をしゃべってクナンショ」と本日会津若松に <行く>ことと<用事>を申し付け下さった同窓会の皆達にもう一度感謝致し ます。

 私は高校卒後、国立大学の入試に失敗して1年ほど東京で予備校通いをし、 翌年何とか野球部の相棒捕手だった渋川博君の後を追って早稲田大学に入学で きました。 大学卒業後運よくフランスの大学1か所からから1年、さらに翌年別の大学 でもう1年間、合計2年間ほど奨学金を頂いて留学出来たのですが、帰国して からは30数年ほどは、いわゆる大手の会社勤務はせず、フランス語仲間の集団 である小さな会社に勤務し、 当時は日本企業間で海外プラント輸出プロジェクトを遂行が優勢であったの ですが、これら日本の大手石油化学建設関連企業や鉄道建設公団、核燃料開発 公団等の支援として北アフリカのアルジェリア、中央アフリカ、マリ、ニジェ ール、ザイール=現在のコンゴ民主共和国、やドイツ統一以前の東ドイツ等に フランス語やドイツ語の通訳翻訳要員を総勢で100人前後位を社員として5年 間くらい派遣し続け、私も最初は北アフリカのアルジェリアと中央アフリカの ザイールに各1年現地勤務し、次いで日本に帰って、これらの派遣人事管理業 務を行いつつ現地査察に毎年各国に出かけて行って諸問題の処理に当たってい ました。

日本の海外プラント輸出が円高により人件費が高騰し、その影響でヨーロッパ 企業と争って入札で負け、日本んプラント輸出が凋落し始めてからは、この類 の人材派遣業務が激減しましたが、運よく同時進行で狙っていたフランスの先 進医療機器メーカーとの接触に成功し、その製品の国内代理権を取得して日本 に導入するような仕事に従事して、それ以降フランス、ドイツ、アメリカを中 心とした海外と日本を毎年数回行ったり来たりしていました。今までの合計海 外往復回数でいえば150回程度はしていると思います。 並行して日本の大学 病院や大手専門病院の医局に出入りし、一方では日本ーヨーロッパーアメリカ 等で開催される国際医学会議、海外の先端的医療手術・治療現場などに日本の 専門医師や医学部の教授を伴って見学に行ってました。 今でも当時の後輩が 主催する会社を手伝うべく、役員として週二回ほど東京の事務所に顔を出して います。

 主として関った日本代理権取得と国内販売が順調に推移した医療機器分野を 簡単に説明します。この同窓会諸兄にはこれらの医学専門分野の先輩や後輩の 医師の方が居られるかとは思いますが、私の説明に素人的逸脱が露見の折には ご遠慮なくご指摘をお願いします。

1. まず手掛けたのが泌尿器科: フランスのEDAP社製体外衝撃波腎結石 破砕装置(ESWL)(2億5千万の装置で10数年間で100台上販売+保守、デンマ ーク製前立腺記憶合金ステント、アメリカ製Nd・YAGレーザー(80W)及び最近 ではドイツ製高出力半導体前立腺手術用レーザー治療装置(300W)(外来治療 にむけて)

2. 次に(肝臓胆嚢)消化器内科関連: 上記フランス製EDAPによる胆石 ESWLの展開、フランス製フィブロスキャン(肝臓組織の硬度測定装置=せん断 波使用、最近特に注目されている): (超音波の照射によって生体組織に圧迫 を加えると、その反動で横方向にせん断波 (Shear Wave) が伝わります。その 伝播速度は生体の弾性 (硬さ) によって変わります。 その速度を超音波装置 で計測することにより、組織の硬さの空間的分布をカラーで表示します。) C型肝炎(昔の予防注射のハリから感染?)―肝硬変―肝がんへの肝臓の硬 さ経過追跡。最近では循環器内科では、フィブロスキャンで測定した肝硬度 と心臓の右心房圧(心不全の前兆)が有意に相関することを論文や学会で発表 されており、多施設研究が開始されている。新たな循環器診断項目が出来そう で注目されています。

3. 新生児科+耳鼻咽喉科: 新生児聴覚スクリーニング、アメリカ製AAB R(自動聴性脳幹反応)NATUS、アメリカ国内見学ツアー、厚生労働省研究班設立 (東邦大新生児科多田教授、東京女子医大小児科三品助教授、帝京大耳鼻咽喉 科田中先生)

4. 血管外科: ドイツ製下肢静脈瘤レーザー治療装置(外来手術)ELVE S

5. 放射線科: ドイツ製CT造影剤連続注入装置Ct-Motion こんなところが予想以上に順調にいった分野で少し自慢話になってしまいます が、現実にはこれ以外にも手掛けようとして代理権が取得できなかった案件、 代理権は取得したが厚生労働省との対応で輸入承認が取得できなかった案件、 国内販売で業績が思うように上がらなかった案件等は山ほどあります。この業 界千三つならぬ、百三つ位の成功率ともいわれています。  (教授連と海外でご一緒した写真を4-5枚供覧)

 私、現在では35年程前に当時の上述のフランス語仲間が経営する会社に断わ りを入れ仕事しながら鍼灸専門学校に3年間通って、フランス留学時代に気に なっていた鍼灸師免許を取得ましたが、しばらくの間ペーパー・鍼灸師状態で 片隅に放っておいたのですが、ふと人生の終末期を意識して、10年前からです が最初は世田谷区の二子玉川で鍼灸院を開業、次いで現在は自宅で細々と鍼灸 をしており、肩こりや腰痛に加え、特に最近はジストニア、パーキンソン氏病 等の難病系の患者様の治療のほか、自分が好きなスポーツ系(野球、テニス、 マラソン、トレイル、トライアスロン等)の患者のコンディショニング、試合 参加前後の体調管理をしています。 (鍼灸院の看板、 白衣姿)

記憶を現在から最近の話や57年前まで遡ったり、当時の裏話やその後の人生で 転機となった出来事や人との遭遇などを思い起しながら、後半で昔の野球部時 代、最後に現在と残る限られた人生への思い等について、あまり脈絡にこだわ らず時折の写真などをご供覧しながらお喋りさせて頂きたいと思います。

  会津高校卒業後、高校時代は野球漬けになっていたのですが、幸い一浪して早 稲田大学に入学できました。高校時代3年間相棒を務めてくれた捕手の渋川博 君は野球部で当時早稲田の鬼軍曹と呼ばれていた石井連蔵監督の下、レギュラ ーとしてベンチに入り時折ピンチヒッター、代打男として活躍していました。 大学近くの彼の宿舎に遊びに行くとしきりに、「黒さんみたいに伸びのある球 投げるピッチャーは早稲田に誰もイネーガラー、早く野球又ヤンべー」と、入 学直後しきりに野球部入部を勧誘されました。他の母校の野球部の先輩方から も、「ナジョシテ野球ヤンネノー」と頻繁に詰問され続け、自分の中ではこれ がトラウマになり頭の底に張り付いていたようです。
 これが彼にもらっ た当時の早稲田大学野球部の練習用ボールですが、今ではとても貴重なボール になりました。
 でも、小学校、中学、高校と毎日毎日、さらには週末までつぶして日が暮れ るまで野球に打ち込んでいた自分にとって、大学で授業がない時間があり、夕 方の自由時間がありブラブラしたり仲間と喫茶店でコーヒーしながらお喋りで きるというのは夢のような別世界でした。
 ある時早稲田大学野球部が台 湾に遠征旅行に出かけることになり、渋川君を見送るべく羽田空港まで行きま した。 この時、飛び立つ飛行機を見送りながら、ようし俺も近い将来世界に 向かって飛び立つぞ、と訳もなく意気込んだものです。
 これが強いモチ ベーションになったのか、その後大学4年生のとき大学の図書館で見つけた国 際機関UNESCOの情報誌Study Abroadで見つけた奨学金制度があるフランスとア メリカの大学に働きかけ、運よく二か所の大学から奨学金を出すから来い、と の招聘状をいただき、悩んだ末結局はフランスに留学することになりました。

大学では縁あってスイスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを勉強しており、 彼の書籍を出来るだけ原文で読破できるようにと決意し、大学内のフランス語 会なるものに参加して、自主的に大学の授業とは別に飯田橋にある東京日仏学 院に通ったりして、フランス語会の友人同士たちとフランス語をかなり一生懸 命勉強し始めました。

甲子園投手黒岩という幻影はどこかの片隅に追いやって、フランス映画を見た りシャンソンを聞きにいったり、中学時代から独学で引き始めていたギターを ポロポロ弾いたり、東京で開催されていたフランス映画祭事務局にその事務局 で働いていた先輩を頼りに押しかけ、当時人気沸騰し始めていたフランスの女 優で歌手のマリー・ラフォレと知り合い、ホテルの一室でギターで歌の伴奏を つけてやったりとか、体育会系の汗まみれの生活とは天と地の差があるような ナマクラな軟派生活を4年間送っていました。このマリー・ラフォレは当時日 本でもはやったフランス映画、皆様ご存じのアラン・ドロン主演の<太陽が一 杯>に出演して有名になった女優です。

   1964年の東京オリンピックで、我が早稲田大学は駒沢競技場のレスリング会 場の会場進行、通訳を指名され、その為学内で英語と仏語の選抜試験があり私 は仏語で合格して、レスリングのルールを習いオリンピック期間中会場に張り 付いて様々な国の人たちと交流し貴重な経験をしました。
 何故アメリカでなくてフランス留学を目指したのか? と思い返してみると 、私自身、日本帝国海軍の真珠湾攻撃作戦、太平洋戦争勃発の年1941年に生を 受け、今から振り返って見ると、戦後は何につけてもアメリカ文化とアメリカ 文明の影響を受けながら育ってきた感じがします。
 街を闊歩する進駐軍 の兵隊達、彼らにせびってもらうチューインガムやチョコレート、アメリカの 肝入りで成立した日本国に軍備を持たせない、今では貴重な平和憲法、6-3 -3-4制の教育制度、英語教育の徹底、チャンスと実力があればフルブライ ト留学制度でアメリカの大学か大学院に留学するのが学生の夢、大学では人気 のある英会話クラブ(ESS)に顔を出すと、会員で溢れ、居住している住所ご とに地域分けして活動している程人気でした。
 世の中が金科玉条的に何 につけてもアメリカでは、アメリカではと洗脳されたように騒いでいるので、 捻くれ者の反発心が起きてきて、国際連合の国でアメリカに媚びないで堂々と 意見を言い主張している国は何処か? と自問したところ、当時アメリカと冷 戦状態で対立するソビエト連邦を除いてはイギリスやドイツやイタリアではな く、堂々とアメリカに反論しているフランスが浮かび上がってきたのです。こ れがフランス語圏に興味を持った理由の一つでしょうか。
 J/Jルソーは スイス人でしたが著書の全ては全部フランス語で書いていており当時の権威的 なキリスト教会が支配する保守的な文化圏で挑戦的な論文を幾つか出していま した。

 幸いフランスの大学に奨学金制度があるのをUNESCOの情報で見つけ、大学4 年生の時そこの留学制度に論文で応募し、大学で教えておられたフランス人の 先生にも推薦状を頂き、そのフランスの大学の学長が世界大学学長会議で来日 の折に東京で直接面接を受け無事合格、晴れて9月からベルギー国境に近い、 当時日本人にはあまり知られてなかった北フランスのリール・カトリック大学 の現代文化研究所に留学となりました。このリールという街には日本人学生が 私一人しかいませんでした。二年目も運よくフランス中西部の国立ポワチエ大 学の奨学金が取れ、もう一年フランス生活をエンジョイさせてもらいました。 (学生時代の写真) (フランス時代の写真を何枚か)

当時、ご存知の皆さん居られると思いますが、海外にあこがれる若者に影響を 与えた小田実著の「なんでも見てやろう」、犬養道子著の「お嬢さん放浪記」 、五木寛之著の「さらばモスクワ愚連隊」等の影響もあり、真直ぐ飛行機と列 車でフランスに入るのは勿体ないと考え、ヨーロッパを一ヵ月ほどヒッチハイ クして北フランスのりールに入ろうと企画しました。

 当時ソ連国内の旅行は厳しく管理されていてイン・ツーリストというソ連国 営旅行代理店を通してすべての日程や旅程を管理されビザが発行される状態で した。
   横浜から船で日本海を渡りソ連のナホトカまで行き、そこから電車で数時間 北上してハバロフスクまで。
 そこで一泊して翌日そこから飛行機でモス クワに着き、そこで2泊して市内をいわば見張りつき観光をしました。 バレ ―で有名なボリショイバレ劇場でチャイコフスキーの白鳥の湖を鑑賞、音楽好 きには夢のようでとても感激しました。街中では子供たちにボールペンをねだ られました。当時のソ連には良いものがなかったようです。
 女性はホテ ルのメイドさんに日本製の下着を所望されたとか聞いてます。 二日後飛行機 で北に飛んで当時のレニン・グラード(現在のセント・ペテルスブルク)着、 ロシア帝政時代に栄華を誇った首都で今では博物館になっている冬の宮殿など で当時のロシア帝国の栄華を偲びました。 この旅行には日本語片言のガイド 兼情報員(言ってみればスパイですね)が付ききりで自由な散歩は出来ません でした。
 フィンランドのヘルシンキに飛んでようやく当局による監視された旅行から 自由放免になり、ここから気ままにヒッチハイクを開始し、フィンランドから 始まりスウェーデンーデンマークードイツールクセンブルグーベルギーと若者 でにぎわうユースホステルに泊りながら貧乏旅行、1日約10ドル(当時$=¥ 250)旅行をしながら沢山の親切なトラック運転手、営業マン、個人などに 助けられ車に乗せてもらい、時としては自宅で泊めてもらったりしながら、時 として日本では経験しなかった男性に誘われたりしながら1ヶ月程かけて北フ ランスのリールになんとか無事辿り着きました。

 この辺の旅行記やフランスでの学生生活のことを話すとまた時間が掛りすぎ るのですがほんの一部だけ勉学ならぬ遊学の雰囲気が分かる写真をお見せしま す。 (ヒッチハイク時代やフランスの悪友との写真、バイロイト・ワーグナー音楽 祭の写真、の写真などを紹介)

 30歳のある日、フランスから帰ってしばらく務めていた英国系商社の同僚 がイギリス製のテニスラケットを10本くらい束ねているのですが、どうするの と聞いたところ、当時テニスの日本チャンピオンであった坂井利朗選手に提供 して使ってもらう、この会社でこの英国製ラケットの代理店でボールも輸入し ているというのです。
 テニスがご存じの方には知られてSlazengerという英国のブランドです。 現在ウィンブルドン・テニス大会で使用されているボールのブランドです。
たまたま社内に元大阪大学テニス部キャプテンとか横浜の都市対抗戦に出てい る青山学院で活躍した元インカレレベルの女性がいることが分かりテニス部が 結成されて、そのきっかけでテニスを始めたところ、やはり体を動かすことが 性に会っていたのか、それ以来毎週末テニスにゾッコンのめりこみました。 結婚してからも週末は雨が降っていなければテニス漬けで、妻や子供には 、愛想をつかされ続けて現在まで至っています。賞状やカップは優勝以外のも のは家の邪魔だといって、引越しのたびに妻に廃棄処分されました。
(軽井沢での試合、毎トーの記事、優勝カップ、青葉区特別表彰の写真)

 46才の時東京近郊で行われた毎日新聞社主催の毎日トーナメント、略称マイ トー、に出場、これは結構有名なトーナメントで関東一帯、場合によっては関 西辺りからも参加があり精鋭が集まってくるトーナメントなのですが、ベスト ―8まで勝ち上がり、ベスト―4決めの試合で何とテニスを始めたころ憧れてい た元日本のデビスカップ杯選手で、当時では唯一世界4大テニス選手権の一つ 全米オープンテニスでダブルスで優勝された加茂―宮城ペアの宮城淳さんにあ たりました。
宮城さんは本来は50才のクラスに出るはずが敵なしなので 45才のクラスに出場されていました。こちらも出来ることはやって精一杯頑 張りましたが、現代のトップ・スター錦織圭選手が打つような強烈なスピンボ ールではない、直線的なフラットな打球で攻め込まれ、ネットを取られてボレ ーで決められ、見事に玉砕、2-6,3-6で完敗でしたが、由緒あるこの毎 ト―大会であの憧れの宮城さんと対戦で来た、ベスト―8に入れたと、自分と しては充実し納得の大会でした。
 そんな毎週末テニス人生で30年を過ぎた平成15年5月には、62歳で神 奈川県テニス選手権大会=年齢別60歳以上=男子シングルスに参加し、全日 本ランキングに入っている強敵が途中怪我で棄権したりという強運にも恵まれ て、前年の準優勝者を決勝で6-2, 6-2で撃破し、5月のゴールデンウィーク期 間中5日間掛けて一気に優勝してしまいました。
総人口8百万上の神奈川 県はレベルも高く全国的に見ても激戦地であり、甲子園出場以来の45年ぶり の快挙でした。
 これにはさすがにそれまで毎週のようなテニスの試合出 場に愛想をつかし、試合に出かける前に冷たく<途中で棄権してもよいから、 マジ、死なないでね!>を言い続けていた妻も大いに祝福してくれました。 日本テニス協会のポイントが大分加算され、60歳以上の全日本ランキング ・シングルスとダブルスにもちょっとだけ顔を出しましたがまだ仕事を続けて いたので、この年齢になると平日開催が多いベテランの公式試合にはなかなか 参加できず、ポイントがたまらずランキング上位には上がれませんでした。
 今では、今ではテニスの公式試合には出なくなってはいますが、毎週1-2 回友人とテニス・クラブで楽しくプレーし、週2回位5-10キロ位ジョッギング して自分の体調管理をしています。


 私の鍼灸治療室に見える患者様の中には、毎週のようにスポーツ後の体調管 理と食道癌の手術後の転移予防期待のため鍼灸治療を受けに来ている75歳の 患者Hさん、乳がんの後の転移予防に来られている40歳代の女性Oさん、スイ スやフランスの山で1週間位山の中を走るトレイル・ラン(フランスのモンブ ランやイタリアのトルデジアン)をしている若い女性Oさん、中年になってか ら走り始め今ではフル・マラソンをなんとサブ―3(3時間未満)で走る40 才代の男性Yさん、乳がん手術後首が左に曲がってしまうジストニアを発症し て悩む元ランナー40代のSさん等がおりますが、この人たちの影響でマラソ ンに興味を持ち、私も72才になってから少しづつゆっくり週二回ほど走り始 めています。会津ハーフマラソンにも2度ほど参加させていただきました。

この75才の患者さんは凄い人で、長い間トライアスロン(水泳+自転車+走 り、で構成される)(別名:鉄人レース)を楽しんでおり、今年75才になる のですが、もともと心臓弁膜症や下肢静脈瘤を持ち、5年半ほど前に食道ガン にかかり手術を受け、二年前にはレース中に自転車で転倒して鎖骨骨折し、今 もって十数時間もかかる国内外のトライアスロン・レースAカテゴリー(海中 水泳+自転車+マラソン・ラン)に参加されている超人です。
先日食道が ん手術5年の検査でがんの転移がなかった、鍼治療のお蔭と大変喜んでおられ ました。鍼治療がガンの転移を抑制する、という医学的なエビデンス(証拠) はまだ集積されてはいませんが、仮説としては鍼という異物が体内に入ってき てそれによって自己免疫反応が増強されて毎日人間の体内で発生しているガン 細胞の異常増殖を押さえつけたともいえるかもしれません・・

 私は、昨年は2月に京都マラソンに初参加、5時間以上はかかりましたがフ ル・マラソン二度目の挑戦でなんとか完走出来て大感激でした。京都で仕事し ている長女と京都出身の妻が応援に駆け付けてくれたことが大きな完走モチベ ーションになっているようです。この年 11月には神戸でも二人の援護射撃 でフル・マラソンを完走できました。今年はまだフルは、横浜で寒い中と大人 数の参加者で出発の大幅遅れとトイレ休憩で時間を大幅ロスし時間制限に引っ かかり完走出来ていませんが、この秋に10月金沢、12月(那覇)でフル・マラ ソン参加の予定が入っており、どこかで何とか時間内完走したいものです。
 10年前、老後の楽しみに治療院を始めようと考え、昔通った鍼灸の専門学校 で同級生が教頭をしていたので相談に行き、早速面接を受けてその母校で臨床 研修生にしていただき、同時に治療院を東京世田谷区の二子玉川に構えました 。この場所選択は色々考えた末というよりも反射的に、二子玉川でした。
何故かというと、甲子園に出かける前に会津高校の大先輩、当時東急電鉄専務 であられた柏村さんのご手配で1週間ほど多摩川の川縁と当時あった遊園地内 のグランドで合宿練習した青春の思い出の土地です。
その結果として今で は終の棲家をこの思い出の二子玉川のすぐ近くにと思い、結局多摩川を一つ隔 てた東急沿線の溝の口近くに引っ越し、治療院も自宅に移しノンビリ鍼灸治療 をしてます。 
 年に二回くらいは仕事と遊び半分、鍼灸の国際学会参加 や又役員をしている会社からの頼まれ仕事で海外出張旅行に出かけています。 今年の11月にはまたドイツのデュセルドルフで開催の国際医療機器展示会に出 かける予定です。

 そんな経緯で、今年の5月にはドイツ中部の観光地ロマッティック街道の中 心都市、ローテンブルクで開催のTCM Kongress(Traditional Chinese medici ne)に参加してヨーロッパ諸国を中心とした従来の西洋医学に対峙する東洋医 学としての鍼灸治療に強い興味を抱いている先生方と交流し、勉強会に出席し てきました。マンネリ気味の自分に鞭打つためと、半分は観光と今年が結婚40 周年記念の行事でした。

 近年では2012年に、日本のベテランの泌尿器科専門医師達(岡山大教授高本 先生、平塚市民病院加藤先生、仙台社保病院庵谷先生等)を連れてドイツ製の レーザー装置を使った出血が極めて少ない前立腺肥大症手術見学にトルコのヨ ーロッパ側に近い中心都市イスタンブールの病院に2日の見学を二回、2013年 にはドイツのベルリンとドイツの東端にある旧東ドイツ内のドレスデンの病院 に其々2日(北海道坂泌尿器科病院院長坂先生)、インドの南方でインドのシ リコン・バレーといわれるバンガロールの病院に別の先生方をお連れして2日 の手術見学に2度程行ってきました。東ローマ時代から続く歴史の街、キリス ト教とイスラム教の接点であるイスタンブールの観光が、半日くらいしかでき なかったのがとても心残りですが、一方最近ではシリア難民とIS関連で頻繁 に首都アンカラや最大都市のイスタンブールで自爆テロが何度も発生したり、 EU側からの圧力で一旦ヨーロッパに入った難民がヨーロッパとの政治的金銭取 引の末押し戻されてトルコの施設で収容されていること、さらにこの7月には エルドアン大統領が、女性は自由にスカーフから顔や髪の毛を出し、男性は酒 を飲むようになって弛んでいたイスラム文化圏を強権発動で締め付けして、厳 しい戒律のイスラム文化圏に戻そうと試みつつあるのですが、これに反発する 世俗派の軍部がクーデターを起こし、大統領はこれを強権で一気につぶして関 係者を1万4000人以上も拘束して3ヵ月の非常事態宣言を発令してしまいまし た。 トルコはもともととても歴史的に見てとても親日的な国民で、古代東ロ ーマ帝国文化圏、イスラム文化圏、十字軍以降のキリスト教文化圏が併存して 残る地域で、旅行がとても楽しく感じる国だったのですが、これからどうなる のかしばらく心配です。

また振り返ってみると、1970年代に1年ほど滞在し、その後も頻繁に出かけた 北アフリカ、アルジェリアの内陸東部イナメナスの天然ガスプラントででは20 13年に自爆テロが起きて日本人も10名死亡しました、又今年7月のバングラ デッシュでは日本人が7名犠牲になり、イラク国内での自爆テロ、さらには英 国のEU離れが世界経済の不安材料が溢れだしています。 4年前には私がフランス通ということでパリ・全仏オープンテニス見物にテニ ス仲間5人ほど連れて出かけたのですが、その折に南仏ニースに飛んで毎朝ジ ョッギングしていた有数の避暑地ニースの海岸で、今年になってバスによるテ ロ事件発生して84人が亡くなりました。 最近の報道では同じ南仏のカンヌの市長が、イスラムの女性が従来のブルカと ビキニを合わせたブルキニという着衣が好評だったのですが、これが宗教的隷 属に根差すといってブルキニ着用を禁止しました。フランスには過去の特にア フリカの植民地の関係で西欧最大のイスラム社会が存在しこれをめぐる議論が 絶えないのです。
更にさかのぼって、1年ほど仕事で滞在したザイール(現在コンゴ民主共和国 )は、私が滞在していた1970年代はモブツ大統領の32年間続いた独裁政権下で 治安は安定していたのですが、彼が追放されてからはカビラ政権下で特に1990 年代から<世界最悪の紛争>といわれるほどの内乱状態に陥り日本ではあまり 報道されていませんが大虐殺でなんと540万人以上が犠牲になりました。この 国の工業用ダイア、金、希少金属(レアメタル)のコバルト、タンタルといっ た天然資源を求めてアメリカ、イギリス、カナダ、フランス、中国、ロシアと いった大国がこの国に資金や武器を裏から供与しながら隣国のアンゴラ、ナミ ビア、ジンバブエ、チャド、スーダン等の国を巻き込んで裏介入したのが最大 の理由とされています。

さらには5年ほど前、大学時代の友人が独立行政法人国際協力機構=JICA の仕事で派遣されチュニジア政府の経済顧問をしていたのですが、私はフラン スの西海岸の町ナントに、東京で大成功したクラシック音楽の祭り<熱狂の日 々音楽祭>の原点の街ナントに出かけた帰りに、寄り道して北アフリカのチュ ニスを訪問し、その友人と旧交を温め、とても雰囲気のあるアラブ旧市街を妻 と散策しました。ところが帰国後しばらくしてその年の後半チュニジアのベン アリ独裁政権がインターネットやSNSによる若者の連携でデモが拡大、頻発し て遂に政権が崩壊するいわゆるジャスミン革命が勃発し、これが他のイスラム 諸国にも波及するという連鎖反応になりました。
このように私が仕事や遊びで訪れた海外の町の多くが、その後内乱や革命やテ ロの被害にあっており、私は幸い直接の被害は受けず何とか生き延びてはいま すが、とても不思議な因縁を感じます。
(ザイールやイスタンブールやバンガロールの写真)

  こんな勝手気ままな人生後半でしたが、最後に、もう何度も語りつくされて少 々カビが生えかかった話ですが、やっぱり会津高校野球部時代の思い出を少し だけ掘り起してみます。
途中で、野球部後援会の皆川誠治さんが最近探し出して頂いた昔のサプライズ 映像があるらしいので、それを挿入して頂きますので期待していてください。
 私たちの同期の連中と野球部に入った昭和32年ころは、我が会津高校野球部 は部員が2年生と3年生で10数人しかおらず、バッティング練習でのタマひ ろいにも人手不足のような状態でしたが、我々1年生が10数人入って少しま しになったくらいでした。
でもその年の練習試合で全敗,辛うじて市内三 校リーグで1勝しただけとかなりどん底状態で低迷していました。
でもそ の年の夏の県大会は、何時もは福島・飯坂や磐城・平での開催が多かった大会 ですが、この年は会津若松の二つの球場で開催され、初戦がダークホースの学 法福工と第二球場で当たりました。
この日は私が1年生ながら最初から登 板を命じられ何とか0-0の均衡状態を保っていたのですが、最終盤に来て出 してしまったフォアボールと盗塁のランナーを一人2塁に置いて真ん中の直球 をしっかり打たれてホームランを浴び、0-2となり、その裏の我がチームの攻 撃実を結ばず負け試合になってしまいました。
ホームランを浴びた後その 回をなんとか締めて戻るとき、センターからベンチに走って戻る菊地仁三キャ プテンの目からあふれ出していた涙が今でも忘れられません。

会高野球部に活力が出はじめたのは私たちが1年生の秋の大会からでした。 それまで練習試合、公式試合がほぼ全敗に近かった我が会津高野球部は、1年 生の秋季大会から俄然勝ち始め、注目されるようになりました。
 秋の県 大会1回戦では相馬高校を相手に三振奪取22個、連続三振11個を達成し、あ ちこちの新聞に大きく書かれ少し有頂天になりました。 (写真=福島民報の 記事)
2年生の春の県大会では磐城高校に決勝で敗れたものの準優勝で、次の夏の大 会県予選では優勝候補の一角に位置していたのですが、本番で1週間ほどの長 雨、旅館でゴロゴロ待機、雨天順延の後泥んこの田んぼの中のような飯坂球場 で試合が強行され、平工に4-5の1点差で負けてしまいすごいショック状態 に陥りました。

一方で、憧れの世界に羽ばたく人生への準備、文武両道、学業とスポーツの両 立達成目標、といった青春の惑いの中で、野球漬け生活に疑問、躊躇が生じ、 夏休みには田舎の柳津の家に引っ込んでしまい、会津若松での夏休み練習に参 加しませんでした。 ある日突然渋川君(捕手)、富所君(キャプテンー、二 塁手)、三上君(右翼手)の三人が練習を休み、わざわざ柳津の田舎迄押しか けて来て<もう一度挑戦すんべ!! 黒さん又野球一緒にヤンベー>と強引に 私を説得にかかりました。私は彼等の熱意に根負けし、翌日から若松に戻り、 夏休み練習に参加することになりました。

   その秋、野球部長鈴木静一先生や新しく就任された新監督、会中の大先輩で 、東京大学卒業後中央官庁で官僚をされていた斎藤秀松監督の精神的バックボ ーンに支えられて、会津地区予選決勝で若松商業を2-1で振り切り、県大会 の初戦で強豪磐城高校を1-0で抑え込み、準決勝では安積高校から三振21 個を奪取し2-1で振り切りました。
決勝で東北工業高校には投打がかみ 合い4-0で快勝して秋田の八橋球場で開催される東北6県大会に出場が決ま りましたが、まだまだこの段階では甲子園出場は遠い先の夢の様な出来事でし た。それにこの時代、春の甲子園選抜大会に出場出来るのは東北6県で唯の一 校だけでした。 (新聞記事挿入)

今更ながら振り返ってみると、部長の鈴木静一先生は旧帝国大の日本支配下朝 鮮の京城大学卒業でラグビーはやられていたらしいですが一切野球の経験なし 、又斎藤秀松監督も旧帝大の東京大学卒の元官僚、会津中学時代には野球をさ れていたらしいですが大学では経験なし、で二人とも当初シート・ノックもま まならぬ、ましてやキャッチャーへのノックなどとんでもない、空振りまでし て信夫が丘球場の周りの観客の失笑を誘うしまつ、といった方たちでしたが、 このお二人の精神的指導の下、時折早稲田大学野球部や法政大学野球部出身の 諸先輩の指導は受けたものの、本格的野球経験皆無の指導者二人の下でよくも 福島県予選を突破出来たものです。

  東北大会が開かれた秋田の八橋球場では、初戦は岩手の黒沢尻工業高校でした が打線と守りが順調に噛みあって4-0で勝ち、 準決勝は秋田の強豪金足農業高校。初回に先頭打者に2塁打を打たれるのです が、ここで斎藤秀松監督の常套句「ロゴスとパトス」(ラテン語で知性と感性 の意味)論に準拠して何回も何回も練習した送りバント対策で3塁にランナー を殺します。
 この次の打者を三振には取ったのですが、なんとこの後続 けてヒットを2連打されたのです。
でもこれを何とかしのいで0点に抑え ました。 野球の神様が我々を守っていてくれたとしか考えられません。 その1回裏ツーアウト後、3番富所君が相手エラーで出塁、4番で左打席の私が 捕手の守備妨害ギリギリの偽装バント、実はこれも予め十分練習してあったの ですが、この構えで捕手を惑わせ送球を遅らせ、一瞬のすきにランナー2塁に 盗塁に成功し、次のボールで私がなんとかレフト線への渋いヒットを押し込み 1点を入れました。 試合はこの後双方膠着状態、結局なんとかこの状態を守 り切って1-0で勝ちました。この1回の攻防、特に我がチームのバント処理 で3塁アウトが試合の流れを決めた運命の守備でした。

 決勝は、同じ日の午後、相手は本大会優勝候補本命の東北高校を1-0で破 って勝ち上がってきた東北球界の名門秋田商業高校でした。  我がチームは4回に俊足外野手の伊東君のバントヒット、相手エラー、フォア ボール、などで満塁、最後は捕手の渋川君が粘りに粘ってファールを打ち続け 最後に押し出しのフォアボールで1点奪取。 このまま一気に勝てるかなと思いきや、9回裏秋田商の攻撃で波乱が待ってい ました。
 この二日間で9回x 3連投の疲れか、緊張のせいか、私が何と 最初の二人に連続フォアボールを出してノーアウト1塁・2塁にしてしまいまし た。
 9回裏なので絶体絶命です。 ここでまたエイ!と考え直して、多 分間違いなくバント攻勢と考え、斎藤監督流の「ロゴスとパトス流」バント処 理をかけ、ランナーを2・3塁に送らせず、3塁でフォースアウトをとります 。 これで助かりました。次のバッターを三振に打ち取ってツーアウトだとほ っとしている隙に、相手もしたたか、この三振と同時にダブルスチールを敢行 、虚をつかれた我がチーム、ツー・アウトでランナー2塁・3塁を許してしま います。一打逆転サヨナラ負けの大ピンチ。
地元応援団はブラスバンドを 先頭に地鳴りがするような応援です。
当時の会津球場よりスタンドがダイ ヤモンドに迫っていて選手に近いし強烈な音響、それに何と「会津の山猿、― ―――」応援に慣れてなかったのです。
 私自身は、8回目くらいから二 日で3連投の疲れで左肩が重くかなり痛みが出ていましたが、投手生命がこれ で終わりになっていい、何とか切り抜けようと必死で投げていました、次打者 のカウントを2-1に追い込んで、さあ勝負です。

 当時、偶然會津高校の図書館でみつけて読み込んでいた愛読書Bob Feller 著「私のピッチング」という本があるのですが、彼は当時アメリカの剛速球投 手で当時アメリカではStrikeout Kingと呼ばれていました(Strikeout=三振の 意味です)。
 云わば三振奪取王といったところでしょうが、記録による と102mile(164 km/h)の球を投げていたといわれ、日本では<火の玉投手>と 紹介されていたのですが、その彼の金言を思い出してました。 「絶体絶命のピンチには、その時の自分のベストピッチをド真ん中に投げよ」 、です。
そういえば日本のプロ野球で今年大リーグ帰りの黒田効果の故か、絶好調の広 島カープの野村投手は8勝目を上げた後、「全てのボールがいい日なんてない 。大リーグから戻られた黒田投手を見ていて、その日の軸になるボール中心で 勝負しようと思った」と言ってます。
 その黒田投手ですが、大リーグ球団から提示の20億円ともいわれる超高額の 年俸を振って広島に復帰したのですが、7月24日に遂に日米通算200勝を上げま したね。
 その時彼が語った言葉ですが、名門ヤンキースで不振に陥った とき丁度出会ったバスケットボールの「神様」マイケル・ジョーダン言われた らしいのです。

「今日が最後の試合だったらお前は何をするんだ」、と言われ衝撃をうけ、今 では登板前に必ずこの言葉を読み直すらしいですが、私もこの秋田市八橋球場 で1点リードながら絶体絶命の9回裏ツーアウト2-3塁のサヨナラの大ピンチの 下で3連投の自分の肩が壊れてもいい、これが自分の投手としての最後だと自 分に言い聞かせながら気力体力を振り絞り、その日伸びがあり生きたボールだ なと感じていた速球をド真ん中低めを狙って投げ込みました。
 ボールは 少しインコースよりにそれて打者は振り遅れて手元でつまり、ボテボテのセカ ンド方面のゴロ、私もボールを追って左方向に飛び出しましたがセカンドのキ ャプテン富所君の守備範囲、彼はガチガチに硬くなったものの難なく捕球して 一塁投球アーウート。 ゲームセット!!

優勝優勝、万歳万歳で、勿論後は大変な騒ぎでした。 当時の記録を調べてみ ると、何と何と我がチームが打った安打はわずか2本だけ、選んだフォアボー ルは3個、一方相手の秋田商業に打たれたヒットは4本、与えたフォアボール は私が乱調気味で何と7個、許した盗塁は5個、でも奪った三振は12個でし た。
こんな投球記録で良く勝利できたものだと思いますが、何度も何度も 勝利の神様が私達を守っていてくれました。
 それにしてもこの大会で、私も秋田商業の石戸投手も9回完投を前日に一回 、翌日午前・午後の二連投で計2日で9回X3連投です。現代風の中継ぎも抑え もなしです。
   この時代、食事といえばコメの飯中心でで、大飯と漬物は食らうものの現在 の様な肉や魚や乳製品の豊富な栄養食を食べてなかったのに凄いスタミナがあ ったものですね。
やはり長年日本人が常食にしてきたお米に潜むパワーな のですかね・・ 現在の高校野球では、こんな無茶なスケジュールは組まない でしょうが・・・会津若松駅や市の公会堂での歓迎ぶりはそれはそれは凄いも のがありました。   (駅での歓迎写真等)

甲子園に出かける前に、会津は雪や天候不順で十分に練習できない為、東急電 鉄の専務をされていた我が会津高校の大先輩柏村さんのご尽力で東京の二子玉 川に宿をとり、駒沢球場、玉川の河川敷のグランド、二子玉川遊園地内球場な どで6日間ほど練習してから甲子園に向けて出発しましたが、なんと甲子園出 発直前に監督の斉藤秀松氏の突然のご逝去を知らされました。
 もともと 戦争中から胸部疾患で肋骨を何本か手術で切除されたりして肺の具合が悪く体 調が優れなかったようです。とても残念ながら一緒にせっかくの甲子園の土を 踏めなかったのがとても心残りでした。  (ここで福島民報の映像挿入=約8分)

甲子園では初戦で地元の強豪県立尼崎高校にあたり、フォアボール、内野エラ ーとホームランで0-3の負けで、思い出の甲子園を後にしました。
この県 立尼崎チームはその後勝ち進みベストー4に残りました。
 相手の合田投 手はその後プロ野球(南海ホークス=現在のソフトバンクの前身)に入って10年 ほど活躍されました。  (甲子園の写真をいくつか紹介)
(福島民報の映像)

その年甲子園から帰った我が会津高校野球部は、甲子園出場の勢いと自信で春 4月の信夫が丘県選抜大会で優勝し、6月白河で行われた春季県大会でも磐城 高校を破って優勝しましたが、7月夏の県予選大会には又も大きな魔物が潜ん でいました。
甲子園以来緊張の糸を張り続け、私の左足親指の骨膜炎など であまり練習出来なかった為か、私自身の野球へのモチベーションが下がった ためか、下馬評でダントツ一位の優勝候補の会津高校野球部、又しても1回戦 で福島商業に滅多打ちに乱打され1-7で惨敗し高校の野球生活が終わりまし た。

― 改めて振り返ってみると、この自分の野球生活の大きな転機、ターニング ポイントは高校二年生の夏、野球をやめるか辞めないかと迷って柳津の田舎に 引きこもっていた時、突然押しかけてきた渋川、冨所、三上君たちの強い熱意 の勧誘に崩れ落ちたこと、これが結果としての甲子園出場につながりました。
― 次の転機は、大学卒業の時フランスのリール・カトリック大学とアメリカ の東北の端メイン州にあるBowdoin Collegeから私はキリスト教信者ではない のですが奨学金を提供する旨の申し出があり、大いに迷った挙句アメリカを袖 にしてフランスに出かけたこと。
― フランス留学中、新聞や雑誌で東洋医学の紹介記事をよく目にしたこと。 之がのちの鍼灸師になるきっかけとなりました。
 又私の参加した小さな 会社は皆フランス語に強いことで、日本国内の多くの医療関係業者がアメリカ やドイツやスウェーデンを向いていたのに反して、医療機器では穴場であるフ ランスの高度先進医療機器メーカーの日本代理店になれたことがあります。 ― フランスから帰国して仕事中にイギリス・ブランドのテニスラケットやボ ールの Slazengerに遭遇し、テニスにのめり込んだこと。このブランドは、テ ニスされる方はご存じの、今でも世界4大テニス大会の一つ、ウィンブルドン ・テニス選手権で使用されるボールのブランドです。
― 最近では私の治療院に見える走る患者様の影響で、走りや・マラソンに誘 われて走り始め、完走するという目標を持って1-2カ月に一回何らかのレー スに参加していること、などです。
 今年の私の目標は10月23日の金沢マラソンか11月の埼玉国際マラソンも抽選 で当たっているのですが、ドイツ出張が入りこれはダメ、あとの12月の那覇マ ラソンで制限時間内完走です。勿論若いトップランナーは2時間台前半で走っ ていますが、私としては出来ればこの倍以上掛るものの高齢者ランナーとして 5時間切りを目指していますが、乞うご期待といったところです。

 とまあ、私の惑いの多い紆余曲折人生の半世紀を振り返って見ましたが、何 時も人生の転機になる人との出会いがあり、後ろ髪をひかれながら野球生活と 決別してから、常に右往左往して悩みながらも自分で選択し決断して進路を決 め、それなりに楽しく仕事や遊びや、大学時代、羽田空港で台湾に遠征旅行に 出発する早稲田大学野球部の渋川君を見送ったときに夢見た世界旅行をし続け てきました。

大学で野球を敢えてやらず、皆から(なんで野球止めたの?)とヤンヤ・ヤン ヤいわれたこともあり、しばらくは野球に拒絶反応があったのですが、テニス を始めた30才過ぎにはこのトラウマも消えて、懇意にしていたある大学医学 部教授に後楽園(現東京ドーム)の招待券を頂いて娘と一緒に観戦に行ったり 、巨人軍の年間ファンクラブの友人に誘われて横浜スタジアムに巨人戦の試合 を見に行ったり、この頃はトラウマもまったくなくテレビで野球観戦したりし て楽しんでいます。

昔は誰も言わなかった、スプリットや、ワンシームや、ツーシームとか、チャ ンジアップ、シュート回転などと聞くとフムフム、昔はこんな球種の呼び方は なかったが、不思議とそんなボールの多様な変化は自分でも体感していたな、 と思い起こしています。
硬式のボールはただツルツル丸いだけではないの ですね、このミソは不思議な形の縫い目でしょう。
 この縫い目のおかげ でボールが空気抵抗にあって回転方向と回転速度により不思議な変化をすると いう妙味があるのです。ほとんど無回転のナックルボールなんて左右に揺れて 右か左かどちらかに突然落ちる不思議なボールですよね。
昔物理で習った 流体力学のベルヌーイの定理、覚えてますか?、 が支配する世界ですかね・ ・(硬球ボールを2-3個持参)
ついでですが最近、先ほどもちょっと言いましたが、テレビで野球を見ていて 日本の解説者やアナウンサーの使う野球用語で少し気になることがあります。  ストレート(直球、まっすぐ) と連発しますが:最近アメリカ野球ではstra ight とは言ってないようです。: fastball速球 で。
それに握りの縫い 目を意識してtwo-seam fast ball とかfour-seam fast 四球は: four balls でなくwalk歩きでget a free ticketただ券 , draw a walk (on four) , ,と か言うようです。
興味のある方は、元オリックスで活躍され大リーグに8年に在籍しワールドシ リーズ歴3回もある田口壮氏の著書を読んでください。(野球と余談とベース ボール)

 最後に現在の健康管理的な仕事関連での自伝ですが、23歳の大学卒業直前で フランス留学前に盲腸炎を我慢しすぎて盲腸が敗れ、膿がお腹の中に散り腹膜 炎になり1ヵ月ほど入院を余儀なくされ数年間はお腹の傷跡の瘢痕の引き攣れ に違和感を感じていたことを除き、特に大病に苦しむことはありませんでした が、
ある年に健康診断で引っかかり慢性腎炎があると診断され、当時仕事 でよく通っていた東京の某医大の泌尿器科教授に相談すると、テニスや止めて 塩分を控え安静な生活に戻し腎臓内科で検査してもらいなさいと言われました 。
自覚症状では痛くもかゆくもないのでそのままほっておき、テニスし放 題の生活を続け、しばらくしてまた検診で引っかかり今度は入院して腎臓に針 を刺して組織の生検をしてもらい、これまた同じ診断が出ました。
1-2か 月入院してステロイド大量連続注入の治療をしたほうが良いといわれたのです が、ステロイドと聞いてびっくり、これもご辞退して入院せず、以後特に生活 には困らず現在に至っています。
 たまに健康診断に行くと必ずいくつか の項目で引っかかり薬の処方が出されるのですが、最近10年以上は健診には行 かず、歯医者さんには時々お世話になるものの、病院のお世話には一切なって いません。
 またこの年齢になると血圧も上がるし高血圧用対策の降圧剤 、コレステロール低下剤、前立腺肥大症薬、糖尿病薬、精神安定剤、睡眠誘導 剤、胃薬等々数種類の薬を常用しているケースが同期の仲間や、私の治療院に 見える患者様では多いのですが、私は現在薬のクの字も、また今はやりのサプ リメントも一切飲んでいません。
時折自分の足三里のツボ、これは昔芭蕉 が奥州を歩いて回るとき必ず毎日据えていた健康管理のツボに、お灸を据える くらいです。

又最近では、アメリカ、スエーデン、スイス等の海外で、毎日摂取する食事の 量に関する比較動物実験や、人間で行う大規模疫学比較調査の論文が次から次 と発表されており、どうも小食の方が元気で長生き出来る、認知症になりにく いといわれています。
 一方では日本でも食事を少なく制限する小食療法 や、ヨガや仏教徒などで一般的に行われている断食療法を標榜する医師の先生 方がおられ、その考えに感化され始め、若いころは腹8分ならぬ目いっぱい15 分くらいの大食いで、黒岩オメーよく食うな! と言われていたのですが、最 近では朝飯や昼飯を抜いたり、腹8分ならぬ腹6分を心がけていますが、胃腸を 休めて空腹感を感じる時は心身の調子が良いようです。

高校を終わり其れまで入れ込んでいた野球を完全に振ってしまい、それでもト ラウマを抱えながら海外に出かけたり、テニスに夢中になったり、最後にマラ ソンまで始めたりですが、幸い家族にも恵まれ、波乱万丈ながら楽しい我がま ま人生でした。

   大阪でe-クリニックを経営されている医師、岡本裕先生の言によると<人間 、健康と病気は繋がった一線上にある、健康で生まれて少しづつ病気に傾いて ゆく>とのことですが、そういえば昔フランス語を習っていた時、[La naissa nce, c’est un pas vers la mort] という古代ギリシャの格言を思い出しま した。
つまり「人間の誕生というのは、死への第一歩を踏み出したこと」 という意味です。
  近いうちに作家、太宰治のいう<グッドバイ宣告>が空から降ってきても、あ あそうですか、有難うございました、大変お世話になりました、と言えそうな 気分です。・・・・・もっともその場になったら見苦しいほど狼狽するかもし れませんが・・・・・

もう賞味期限が切れた一会津高校卒業生の、野球と甲子園、フランス留学、世 界の先端医療機器導入、伝統的東洋医学の実践、そして最後のあがきともとれ るヨレヨレ・マラソンへの乱入、オマケは現在の仕事柄から個人的健康観の発 露、とまったく一貫性のないブッ飛ばし自分史みたいな、とりとめのない話に なりました。
皆様も所詮人生一回しかないし、世界各地でテロが発生しているし、日本にも ここ会津にもいつテロリストがやって来るかもしれないし、バスケット・ボー ルの神様M/Jordan言う如く<今日が人生最後の日かもしれない>と自分自身に 言い聞かせて、自分が今やりたいと思うこと、やり残したことを、まだ元気な 今のうち、今日のうちに実行し追い求めて、近いうちに間違いなくやってくる 冥途への良い手土産を作り上げてください。
  長い時間ご静聴ありがと うございました。  

(長文力作でしたので途中に適宜、文意を損な うこと無きよう段落文字送り等入れさせて頂きました:HP管理者)

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【小さな銀塩写真は語る】    酒井幹夫



 過日、アルバムの整理をしていたら珍しい写真が見つかった。
 この画像にまつわる昔日の想い出がいろいろと脳裏を駆け巡る。
 まず左の小さな写真をご覧ください。
 昭和28年頃に写した二人の弟たちです。
 幼かった彼らのこととともにこれを写した小さなカメラにもしばし思いを馳 せ らせました。

 このカメラの写真をご覧ください。見覚えのある方もおられるでしょう。  このカメラを見て懐かしいと思う人は我々昭和10年代の生まれの人たちで あ ろう。
 スタート35という小型カメラである。
 スタート35は、1950年に発売されたカメラで、35mm巾のフィルム に 裏紙を巻いたボルタ判フィルムを使い、24×24mmの画像を撮影する 。
  ベークライトのボディーに単玉のレンズ、明るさは不明だが前面のスイッ チでS(夏)とW(冬)を切り替えるというシンプルなものであったがこのよ うに画像は残せるカメラであったようである。
 当時の価格が850円だった。
 欲しかったけど其の頃の言葉にニコヨンという言葉があったように、日当が 294円の時代にこの金額のしろものが買えるわけもない。
 そこで同級生の親友に借りて写したものである。
 その友人は会高2年生の秋に16歳で夭逝した市内の醸造家の御曹司の阿部健 一君である。
 さすがに素封家の一人息子だけあって同世代の者たちが憧れる品物は何でも 揃っていた。
 ステレオコンポ、レコードプレイヤー、アサヒペンタックス、ニコン双眼鏡 、 シャンソンレコードなどなど、我々垂涎のまとにふさわしいものは殆ど持 っていた。
 中でもシャンソンレコードは叔父さんの蒐集を受け継いだものでかなりの量 であった。
 その影響で私が覚えた最初のシャンソンがジュリエット・グレコの「枯葉」 である。
 爾来、私にとって「枯葉」は”聖歌”の範疇にある。

 あれから半世紀以上の歳月を経た今日この頃、よくぞここまで生き続けて来 たものだと感慨深いものがある。
 25×25㎜のたった一葉の写真に詰め込まれた青春時代の蜃気楼が私を夢想の ひと時にいざなってくれた。

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【伊能忠敬と子午線】    平野 彰


前回のこのHPの原稿 伊能忠敬の件については、会津を訪れた歴史上の人 物の一編としてのものであったため、会津を通過したという経過のみの記述で あったので、今回改めて忠敬の事績について述べてみる。賢明な諸兄にはすで に承知かと思いますが。
  日本の経緯度原点は東京都港区麻布台2丁目18番1、ロシア大使館の裏手にある 。
我々のグループも何度か調査に訪れたが、原点の周辺は各国の大使館や施設 が多く日ごろから警備が厳重である。
第一回目に訪れたときは、米国での同時テロの直後で、我々の異様な風体の一 行には、警察官も警戒の色が見え見えであった。
 案の定調査を終わっての帰路、奥から出てきた上官らしき警察官の職務質問 を受けた。言葉は丁寧であったが、都心での山のスタイルに一部のヘルメット 姿はいまだに全学連騒 動の影を引きずっているようだ。
 経緯度原点の座標は 東経139度44分28秒8759 北緯35度39分29秒1572であ る。
 兵庫県明石にある東経135度の子午線はこれを基準に測ったもので、イギリ スの旧グリニッジ天文台を通過する子午線が0度で本初子午線と呼ばれ、明石 のそれは東へ135度の地にある。
 因みに子午線の語源だが昔は方角を干支の十二支で表していたが、真北の「 子」と真南の「午」を結んだ線ということになる。
  この子午線1度の距離を実測したのは、わが国では伊能忠敬である。
 49歳で隠居のみになった忠敬は、寛政7年(1795年)幕府天文方の高橋至時 に師事し、天文、暦学を学んでいた。
その当時暦学者の間で子午線1度の 長さがいくらあるか、すなわち地球の大きさがいくらかが暦学上の大きな問題 となっていた。
 子午線1度の長さとは、緯度1度間の南北の距離である。この距離については 当時25里(約98.18キロメートル)、30里など諸説があったが、いずれも実 測されたものではなかった。
 忠敬は当時江戸深川の黒江町(現 門前中町1丁目)に住み、浅草蔵前にあ る暦局の高橋至時の元に通っていが、黒江町は北緯35度40分半、暦局は35度42 分でその差は1分半であることは判明していた。
 そこで忠敬は自らの歩 測によって求めた。江戸の市中で間縄や間棹を使っての測量など不可能である ため、やむなくの歩測である。
そのときの測量図は現存しており、方眼紙 にその歩測した距離や曲がり角度などが詳細に記入されている。
 これによって算出した1度の距離を師の至時に提出したが、至時は「測量は 正確でも、あまりに短い距離なので信用できる数値を出すのには無理がある」 との回答であった。  当時の情勢から蝦夷地の地図が必要であった幕府からの要請で、寛政12年閏 4月(1800年6月)蝦夷地に向け出発した。忠敬55歳のときで、1度の距離測 定の好機であった。
このときの長さは「27里」と計算したが、至時の信用 は得られなかった。
 しかし蝦夷地図は部分ではあるが精密なものであったため幕府の信頼度は高 まった。
2度目、3度目の測量の結果は28里7町12間(110.749km )であったが、このときも至時の信は得られなかった。
 その後至時がオランダから入手した、フランスの天文学者ラランドの著書「 ラランド暦書」を苦心の末翻訳した結果、そこに記載された数値は、忠敬の測 定値と非常に近いことが分かった。
初めて師に認められた忠敬は以後自分 の測量に自信を持ち、全国の測量に意欲を燃やしていったという。
 その後忠敬は日本全国の測量を終えたが、文政元年4月13日八丁堀の自宅 で没した。

正式名称である「大日本沿海輿地全図」は弟子たちの手に よって文政4年(1821)7月の完成であった。いつか機会を見て最初に彼が歩測 した、門前中町と浅草蔵前を歩いてみたいと思っていたがその後JR浅草駅前か ら隅田川沿いに門前中町富岡八幡宮までの往復を歩いてみた。
 現在ではGPSまたはカーナビを活用すれば容易に子午線1度の距離が測定 可能で、南北に真っ直ぐな道路があればより簡単である。ついでながら現在の 長さの単位「メートル」は当初子午線の長さが基準であった。

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【会津花便り】    遠藤 利信


先ほどTQさんからメールが届きました。 鶴ヶ城の桜情報です。 メールの一部添付
以下引用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兄が「昭和公園」を逍遥の頃、福島の花見山に野宿、11日午後、鶴ヶ城に入り ました。
そこには何と予期に反して今満開に達したばかりの桜がありました。
証拠に地面には一片の花びらも散っていませんでした。
夜になると雪が降り出しました。
そして雪の冷気が絢爛豪華な鶴ヶ城の情景を固定しました。
・・・・・中略・・・・・・
翌日は冠雪でも晴天、「道の駅・下郷」で見事なアスパラガスを買い、 道端に車を止めては少し旬を過ぎた蕗の董を袋一杯摘んで帰りました。 会津が故郷でよかった。と、しみじみ思う。 TQ
引用終り

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ちなみに添付写真の「一輪」には感服、バックが白一色と枝葉のボケが良い!
お城の桜か花見山の桜か分かりませんが、24日に若松に行く予定ですが、 花は終わりかと諦めて、「うば桜」見てきます。
余談  「うば桜とは 本来の意味は」   
(うば桜検索から) 姥桜には「本当の意味」があるんですよ。
女性を姥桜と呼ぶのは、本来は「中年ぐらいの歳になっても、まだ色気があっ て若く美しい状態を保っている女性」のことを指すのです。
こんな美しい語源があるのにいつか葉が出るより先に花が開く桜の通称から、
ヒガンザクラ・ウバヒガンなどを言い、葉がないことを「歯無し」に掛けた語 になったのです。
 言葉にはたいてい裏表が有りますが、くれぐれも女性への褒め言葉としては 使わないように。
「小町桜もおひぬれば 身はももとせの うば桜」
俳句でも短歌でもない何の句でしょうか?
誰でも歳はとりますが、生涯美しく齢を重ねなさいという意味でしょうか。 3年ほど前に鶴ヶ城の百歳(?)の老木の土壌改良をする事業に 同期7人で参加しました。今年はどんな花を咲かせたのか楽しみです。




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【会津高卒55年雑感】    酒井幹夫


私たちも母校を巣立ってから55年、半世紀を超えた。
1868年明治政府設立後50年といえば日本は既に日清、日露、WWⅡを 勝利し戦争へのポテンシャルを着々と涵養していく過程であった。 (その成功体験が国家を崩壊させたことに行き着くのではあるが・・・ )
 私たちにとってのこの50年間も壊滅的戦後からの復興と高度成長の波に乗り しかも戦争もなく平穏な日々の営みの中で物質的には豊かな時代の 形成に一役買って今に至っているわけです。

しかし思い返せば当時の貧しかった時代からこの飽食の時代までたったの50年 かそこらしか経っていないのです。
50年という時の軽さと同時にその間に人々が築いてきたコンテンツの重 みを同時に実感します。

さて、過去から続く時間の糸を手繰り寄せると延縄に掛った獲物のように、当 時のいろんな事柄、想い出が絡まりついてくる。
こんな話を思い出した。
 高校生時代のあの頃は校舎内にいる女性といえば通信教育部の和服をお召し の事務のおばさんとミス・パンこと購買部に居たお姐さんだけ、女護ケ島なら ぬ野郎ケ島だったように女性の存在感が希薄であったと思う。
 我々の風体はと言えば貧困と虚勢と伝統とファッションをないまぜにし た所謂バンカラで、弊衣破帽、朴歯の足駄に腰には小汚い手ぬぐいをぶら下げ 揚々と通学したものである。
よく言えば質実剛健、有態に言えば野暮天という會津藩の時代と大して変わら ない。
そんな有様だから街中で行き交う女子高生に秋波など言語道断、ましてや昨今 の高校生のように手をつないで公道を闊歩するなど途方もない脱法行為であっ て、周囲から頂く”尊称”は即「不良」である。
しかしその「不良」なる言葉もいまや規格外れ製品の総称になってしまった。
その一方で一部”アバンギャルド”な生徒たちは市内の女子高生(今風に言 えばJKというらしい)とコンタクトを持ちよろしくやってる者もいた ようである。

あれは確か昭和34年の出来事である。 我々より1年先輩の先進的諸氏面々が大胆にも学校近くのアパートの一室 で市内のJKたちと「桃色遊戯」に耽っているところを警官と補導教員 に踏み込まれるという事件があった。

気が付いた彼ら彼女らはパニックとなり蜘蛛の子を散らすように逃亡。 ところが裸足で飛び出した生徒の一人が市内の旅館の”焼判”の入った 下駄を置きっ放しにしたことから文字通りアシがつき全員補導処分を受けるこ とで一件落着。

新聞にも載った主犯会高生の一大事件ではあった。 因みに石原慎太郎の小説に端を発した「太陽族」にあやかりたかったの か彼らはグループ名を「太陽団」と命名したのにはなるほどと妙に腑に落ちた ものだ。
当時補導教員だった義兄も今は亡い。

今では周りの年配者に「桃色遊戯」の意味を聴いても殆どの場合「?? ??」である。
この言葉も時の消しゴムに消されてしまったようである。 現在では「不純異性交遊」というさうであるがそれさえも存在が危うい 状態である。
青春時代の彩も時代によって変遷していくもんです。

   いわし雲 追憶を見ん 美しく

最後まで読んで頂き謝謝!

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【戦争の幻影 若松歩兵第65連隊】    酒井幹夫


この欄とは多少趣が違うかも知れないが戦後70年となるいま 安倍政権が戦争法案を国会にかけるべく審議中であることにかんがみ少し考察 してみた。
政府はいろいろと弁解するが戦争の危険に一歩近づくことは自 明の法案であり、明らかに憲法違反の事案であろう。
 大方の憲法学者も違憲表明をしている。
憲法審査会において、民主党が推薦した、小林節・慶大名誉教 授;維新の党が推薦した、早稲田大学政治経済学術院笹田栄司教授;さらに自 民党、公明党、次世代の党が推薦した、早稲田大学法学学術院長谷部恭男教授 までもがこぞって「違憲」表明した。
 戦争の残酷さは我々の世代はすぐ上の世代から直接に聞き繋 いでいるはずだ。
我々は彼らの教訓を孫や子に伝承する義務があろう。
若松歩兵65連隊に所属し死地から生還した先人たちの貴重な 証言を見出したので紹介します。
この中には貴兄らの身内もおられるかも知れない。
ぜひ一読していただきたい。
<NHK 戦争証言 アーカイブス>(クリック)

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【近藤勇の法名と墓所】    平野 彰


近藤勇は天保5年(1834)武蔵野国多摩郡上石原(調布市)の 豪農宮川久次郎の三男として生まれた。

幼名勝五郎、のち勝太を名乗る。三多摩地方は天領であったた めか昔から百姓、町人の間でも剣術が盛んで、嘉永元年(1848)11月、勝太 も江戸から出稽古にやってきた、天然理心流の近藤周助に入門した。翌2年1 0月周助は、勝太の人並みすぐれた腕前を見込んで養子に迎えその名を勇と改 めた。文久元年(1861)8月勇は天然理心流の4代目宗家となる。

文久2年10月出羽国庄内藩出身の清河八郎の意見を入れて、 松平忠敏は世情騒然となりつつある中、人材登用も含めて幕府に浪士取り立て の建言をし、政事総裁職の松平慶永はこの建策を入れ浪士組を結成した。

この時期江戸市ケ谷で試衛場(館)を主宰していた近藤勇は土方 歳三、沖田総司等とともに参加、浪士組の総勢は235名ほどであった。この 中には子分30人程を引き連れた博徒の親分が加わるなど、種々雑多な浪士組 であったようだ。

結成間もなく、幕府は十四代将軍家茂が上洛するさい護衛とい う名目で、京都へ送り込むことにしたが、京都の治安を乱す尊攘派を牽制する 目的もあった。

文久3年2月23日京都壬生村に到着したその夜、清河八郎は浪士 組一同に対し、上京の目的は、尊皇攘夷であることを告げ、また幕府を無視し ても天皇に忠義を尽くすとの論であったため、公武合体論の近藤らは清河らと 激しく対立した。

清河の態度に疑念を持った幕府は浪士組に対し江戸帰還を指示 、3月13日清河らは京都を出立したが、芹沢鴨、近藤勇らは京都に残った。此 の残留組17名は12日夜「会津藩預かり」となる。江戸に帰還した清河八郎は、 佐々木只三郎らによって斬殺されている。
会津藩預かりとなった後、残留組浪士は試衛場(館)の近藤派 九名、水戸浪士の芹沢派五名、下総浪士殿内派(残留組結成間もなく粛清され ている)等でおおよそ3つの派にわかれ壬生浪士組と呼ばれていた。
 文久3年8月18日の政変では、御所の建礼門前を守ったが 、その折武家伝奏から「新選組」の隊名が与えられた(島田魁の日記)。
此の後目に余る行動の多かった芹沢派も粛清され、局長近藤勇 の下、強固な新選組が誕生した。これからの近藤新選組の活躍は池田屋事件を 筆頭に周知の通りである。

  十五代将軍慶喜による、大政奉還後旧幕府側は大坂へ退 去、近藤勇も馬で引き上げる途中、伏見街道墨染で新選組を脱走した、伊東甲 子太郎一派の残党篠原泰之進により狙撃(篠原の日記)され肩に負傷しながら大 坂へ向かった。

  負傷のため鳥羽伏見の戦闘には参加できず、その後船で 江戸に帰還し、会津藩をはじめ幕府側の負傷兵とともに西洋医学の治療を受け る。
慶応4年2月近藤勇は幕府から甲斐の治安維持を命じられ、幕府 、会津藩や医師の松本良順から多額の軍資金を支給され、幕府からは大砲、小 銃などの武器弾薬を与えられ装備は洋式、洋装に変わっていった。
新選組は甲陽鎮撫隊と改名、近藤勇も大久保剛と名をかえ甲府 へ向かって出陣したが、土佐藩の谷干城率いる新政府軍と甲州勝沼の戦いで敗 走、千葉の流山に陣をかまえた。

しかし宇都宮を目指す新政府軍によって、大久保大和と改名し ていた近藤勇は捕縛された。

板橋宿に護送された勇の処置について、新政府軍としては結論 が出ないまま、坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺は新選組によるものと信じ切ってい た谷干城らの指示で慶応4年(明治元年)4月25日斬首の刑に処せられた(享年 35歳)。
 処刑場所は諸説あるが、宿場はずれ平尾一里塚付近の入 会地ではないかと考えられている。「島田魁日記」には「公の死に臨むとき、 顔色平生に異ならず、従容として死に就き、見る者涙流して惜しまざる者なく 、実に古今無双の人傑なりと」(一部省略)とある。


 また辞世の七言絶句を残している。斬首された首は板橋 で3日間晒され、焼酎(または塩)漬けで京都に送られた。近藤勇の墓は塚も含 めて数か所ある。
 一つには処刑後埋葬された場所の近くでJR埼京線板橋駅 東口前、ここの墓碑は明治九年永倉新八らによって建立されたもので近藤勇宣 昌(昌宣が正しい)と土方歳三義豊の名が刻まれている。

  処刑直後の寿徳寺の墓石には「勇生院頭光放運居士」慶 応四戊辰四月二五日 近藤宜昌と刻まれている。
 二つ目は娘婿の近藤勇五郎らの手により処刑後埋葬され た亡骸を掘り起し、三鷹市大沢にある勇の生家の

  菩提寺竜源寺に改葬したもので、墓には「心勝院大勇儀 賢居士近藤勇之墓」とある。
三つ目は愛知県岡崎市本宿法蔵寺で墓の名は「貫天院殿純義誠 忠居士」で首塚といわれている。

四つ目が会津の萬松山天寧寺の墓である。京都で晒されていた 首が何者かに盗まれた。土方歳三が運んできたと言われているが、疑問もある 。

板橋、京都そこから会津まで相当の日数がたっていること、流 山から脱出後旧幕兵や桑名藩兵達とただちに日光方面に向かっていることから 京都まで行ってくる余裕があったとは思えない。

或は第三者が届けたか。岡崎にある首塚との関連では、京都西 三条に晒されたが同士が盗み出し、勇ゆかりの京都誓願寺に持ち込んだ。

  そこの住職が岡崎の法蔵寺(徳川家ゆかりの寺)の住職に なったため密かにこの寺に埋めたとい云われている。昭和33年この寺から記録 が見つかり、此の地を掘り返し、台座や遺品が出土したとのこと。

  近年遺族の手で墓を整備、胸像も建てられた。筆者は「 純義誠忠」の法名は

この時子母澤寛の「新選組始末記」から引き出したのではないか と推察する。天寧寺の墓には丸に三つ引の近藤家の紋と「貫天院殿純忠誠義大 居士」側面には慶応四年戊辰四月二十五日卒 俗称近藤勇藤原昌宣(まさじみ) と刻まれている。

  容保公は歳三の来会を喜び,城中で歓迎の宴を催し、勇の死を悼 み上記の戒名を贈り、墓を建てた。「会津戊辰戦史」昭和8年8月発行には以 下の文がある。(冗長になるが全文を紹介する)

「近藤勇が墓は東京府北豊島郡板橋町に在り、但し京都にて梟ら されし頭は如何なりけん、福島県北会津郡東山村天寧寺に近藤勇の石碑あり、 表面に貫天院殿純忠誠義(大)居士、側面には慶応四年戊辰四月二十五日 俗称 近藤勇藤原昌宜とあり、是 土方歳三が建てしものなり、勇が頭または髻を埋 めしと云う説あれども、短日月の間に頭若しくは髻が土方の手に入ると云うこ とは信ぜられず、確證なき限りは招魂碑と見るを可なりとす、また法名は我が 公の賜るところなるを加藤寛六郎が城中に於いて新しく土方の語るを聞けりと の話あり」(注:法名、本文では(大)の文字無し)。

会津史研究家の後藤勝弥氏も”結論として会津にある勇の墓は 首、遺髪、戒名此の三者の何れかと云えば私は戒名を採るとしている。(一部 略)

このほかに京都壬生寺には勇他亡くなった隊士の塚がある。また 山形県米沢市の高国寺にも首塚があるという。
法名としては最上級のものと思われる法名の中に、勇に対する容 保公の厚い思いが籠められているようである。

近藤勇の法名について、子母澤寛「新選組始末記」と平尾道雄「 新撰組史録」には「貫天院殿純義誠忠大居士」とあるが「純忠誠義」が正しい 。「新撰組史録」は新装版にて訂正。
 子母澤寛は「新選組始末記」執筆のさい古老などから取材 しているが、歴史書ではない物語として纏めたもので、事実関係についての裏 付け調査はしていないようだ。


「天寧寺」は会津若松萬松山天寧寺、平成25年11月撮影
右は土方歳三の墓で木製。
近藤勇の墓が各地に幾つもありながら、いずれも首なのか髪あ るいは他のものか確認できない。
幕末の偉人を慕う人々の多い中、明治初期は騒然としていて敗 者側の人物については正確な記録がなかったと感じる。

 

「板橋駅前」 近藤勇、土方歳三の墓 寿徳寺境外墓地 JR 埼京線板橋駅東口
平成26年4月20日撮影 近藤勇之命日は4月25日である が直前の日曜日に供養祭が
おこなわれる。明治9年5月元隊士永倉新八らにより建立。

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【あるブログからこんな論説を見つけました。共感できる部分があるので以下引用します】    酒井幹夫


松平容保 歴史に翻弄された“お殿様”(上)作家・伊東潤 その任にあらずとも歴史の表舞台に立たされ、大きな役割を担わされる 人がいる。
平宗盛(むねもり)、足利尊氏、織田信雄(のぶかつ)、小早川秀秋 、徳川慶喜(よしのぶ)などは、その典型だろう。
 どうひいき目に見て も、彼らは賢者や知将とは言えず、凡庸ないしは小才子(こざいし)の そしりを免れない。
しかしここに、ある程度の頭脳と勇気を持って いながら、歴史の渦に 巻き込まれ、図らずも、家臣や領民に塗炭(とたん)の苦しみを味わわ せてしまった人がいる。
幕末の会津藩主・松平容保である。

ここに高須松平家(美濃高須藩3万石)4兄弟の記念写真がある。

 

右から次男の元尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)(55歳)、五男で高須 藩主や一橋家当主などを歴任した一橋茂徳(もちなが)(48歳)、六 男の松平容保(44歳)、七男の元桑名藩主・松平定敬(さだあき)( 33歳)の4兄弟である(年齢は明治11年の撮影時のもの)。

彼ら4人は、幕末から明治にかけての激動の時代を生きてきたが、志士出身者 のような迫 力は、写真から感じ取れない。

この写真の印象を一 言で言うと、「戸惑い」だろうか。

天保6(1836)年、容保は美濃高須藩主・松平義建( よしたつ) の六男として生ま れた。

 

弘化3(1846)年には、叔父にあたる会津 藩主・松平 容敬(かたたか)の養子とされ 、嘉永5(1852)年にそ の家督を継ぐ。

会津藩は、3代将軍家光の弟・保科正之を祖とする23 万 石の親藩大名である(内高(う ちだか)40万石)。

家光は早くから正之の才を見抜き、4代将軍家綱の後見を 託すほど信頼 した。

 

これに感激した正之は、「将軍家に忠勤を尽くすことだけ を考え 、他藩を見て己の身の振 り方を判断するな。

 もし二心を抱く藩主がいれ ば、それはわが子孫では ない。

家臣たちは従うな」という遺訓を残した 。

それから約200年後の嘉永6年、ペリー艦 隊の来航により、日本は 幕末の沸騰を迎える。

 

京都では、尊王攘夷派の不逞(ふてい)浪士によ る天誅( てんちゅう)と称する暗殺が頻 発し、無政府状態に陥る。

これ に対し、幕府は京都守護職という新たな職を設け、軍 事力によって治安 を維持しよ うとした。

 

文久2(1862)年7月、幕府は容保に京都守護職就任 を要請する 。

容保は財政難を理由に固辞するが、将軍後見職に任じられ た一橋慶喜 に迫られ、最後には 受けてしまう。

同年12月、容保は1千の兵を率いて上洛、翌文久3年1 月には孝明 天皇に拝謁した。

まず容保は、薩摩藩と軍事同盟を結び(会薩(かいさつ) 同盟)、佐 幕派公家を操り、 朝廷を牛耳る尊攘(そんじょう)派公家と長州藩の追 い落としを図った。

 

長州藩兵は御所守衛の任を解かれ、7人の尊攘派公 家とと もに国元に落ちていった。

「八月十八日の政変」である。

 翌元治元(1864)年6月には、会津藩御預の新 選組が、尊攘派志士 たちが集まる池 田屋に押し入り、志士たちを惨殺した。

 彼らの主体は長 州藩士であり、これにより長州藩は 、会津藩を不倶戴天(ふぐたいてん )の敵とみなすようになる。

池田屋の変の一報が長州にもたらされるや、長州藩では三 家老に16 00の兵を率いさ せ、上洛させる。

 

その名目は「攘夷の嘆願」「三条実 美(さねとみ)ら長州 派公家と藩主 父子の名誉回復」だが、実質的には 、武力に物を言わせて政治的主導権を回 復することに あった。

同年7月、長州藩が御所の蛤御門(はまぐりごもん)に攻 め込むこと で、会津藩との 戦端が開かれる。

当初、押され気味だった会津藩は、薩摩藩の参戦により窮 地を脱し、長州藩を京洛の 地から追い払うことに成 功した。

この結果、第一次長州征伐が実施され、長州藩は三家老の 首を 差し出し、恭順の姿勢 を示すことになる。

 

 

松平容保(下) 主体性の欠如が招いた悲劇 作家・伊東 潤

 

第一次長州征伐後、政局は混迷を極めてくる。

まず会津藩のあずかり知 らぬところで、薩摩藩が長州藩に 接近し、その政治工作により、 第二次 長州征伐がうやむやのうちに終わる。

そんな折、将軍家茂が病死し、一 橋慶喜(よしのぶ)が将 軍職に就いた。

慶喜は水戸藩出身で勤王の志が強い。

それが、松平容保(かたもり)と会津藩の悲劇を助長する ことになる。 この難局にあり、容保は慶喜に追随するだけで、強く意見したという記録はな い。

 また距離を置いて保身に走ったわけでもない。 幕末の政局 全体を通して言えることだが、会津藩には「バックには幕府があ る」と いう 安心感があるのか、危機意識がさほど感じられない。

 

ところが慶応3(1867)年10月、慶喜は大政を奉還 してしまう 。

 もちろん発表前に容保も知っていただろうが、実際 にどれほど相談にあずかり、影響力を 持てたかは定かでない。

 というよりも慶喜にとって 、容保と会津藩は忠実な 番犬でしかなく、相談相手ではなかっ たのだろ う。

慶喜としては、王政復古となっても雄藩連合の盟主的地位 に君臨するつもりでいたのだが 、岩倉具視や大久保利通の画策により、盟主どころか辞官納地を迫られてしま う。

慶喜の 政治的敗北である。

 

このあたりの 高度な政治的駆け引きに、容保は加わってい ない。

 会津藩がかかわると 、再び京が戦乱に見舞われると 思った慶喜により、蚊帳の外に置か れたというのが定説だが、容保が信頼されていれば、疎外されるはずはない 。

慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発する。

戦端を切りたい薩長方に対し、「政治的圧力をかける」( 慶喜談)ために軍事行動を開始 した幕府方との思惑のギャップが、この戦いの結果を左右することになる。

すでにこの時点で、慶喜が小才子であることは分かってい たはずであり、また相手方に玉 (ぎょく)(天皇)を握られている限り、いつか錦 旗が上がるのも明らかで ある。

いかに藩祖の遺訓があろうが、藩士や領民を守る義務のあ る藩主であれば、慶喜に「勝手 になされよ」と言って従わないこともできたはずである。

 

軍事圧力を駆使した政治的駆け引きだけで辞官納地を撤回 させ、政治的立場の回復を図ろ うとしたところに、慶喜の勘違いがある。こうした 方針に容保が反対した形 跡はない。

容保と松平定敬(さだあき)(桑名藩主)の兄弟は、慶喜 に丸め込ま れて、いいように 使われていたとしか思えない。

つまり主体的に動くこ とができず、ただ命じられるままに 走り回るだけなのだ。

 

軍事力を持っ ていれば、いかようにも影響力を行使できる のだが、容保はそれをしな かった。

容保の判断ミスの極め付きが、鳥羽伏見の戦いが終わらぬ うち、慶喜 とともに開陽丸 で江戸に逃げ帰ったことである。

この時、会津藩士の大半が置き去りにされ、会津藩は死者 だけで130余も出し、なけ なしの金で買った最新兵器の大半を、京洛の地に置いていかざるを得なかった 。

江戸に帰った後、慶喜は勝手に謹慎恭順し、容保の登城さ え差し止め た。

 

つまり容保 ・定敬兄弟は、土壇場になって梯子を外されたのである 。

 会津に帰った容保は、和戦両様の構えを保持しつつ も、何とか戦いを避 けようとする が、新政府軍の攻勢の前に、頼みの奥羽越列藩同盟も瓦解 (がかい)、つい に会津藩領に 攻め込まれる。

 それでも会津藩は1カ月余の間、籠城戦を完遂した 。小藩から養子で 入ってきた容保 に、一丸となって忠節を尽くした藩士たちは立派だった 。

幕末の荒波に翻弄された容保は、悲劇の主人公とされる。< /h1>

 しかし、その大半は己が招いたことであり、やはり 歴史の転換点に立つべき器量の 持ち主 ではなかった。

 容保が死去したのは明治26年12月。享年は5 9 だった。

すでに幕末維新は雲煙の彼方に去り、日本は列強への道を ひ た走っていた。

 

維新後、高 須4兄弟は、誰一人として政治の表舞台に登場することな く、この世から去 っていく。

容保にも活躍の場はなかった。それでも容 保には、不満な どなかったに違いない。

容保は政治家ではなく、殿様に すぎなかったからである。

 

【著者プロフィル】伊東潤(いとう・じゅん) 昭和35年 、横浜市生まれ。早稲田大 卒業後、外資系IT企業勤務、 コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」 で文 壇デビュ ー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

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